
水戸中央教会 説教 2006年9月10日
「一番重要な教え」
マルコによる福音書12章28〜34節
28:彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、
イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
29:イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。
『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
30:心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい。』
31:第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』
この二つにまさる掟はほかにない。』
32:律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。
『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
33:そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、
また隣人を自分のように愛する』ということは、
どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
34:イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、
「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。
もはや、あえて質問する者はなかった。
先週、大洗ベツレヘム教会のふるさとであるインドネシアのミナハサ地方を
関東教区の先生方と訪問する機会を与えられました。
トモホン市の郊外にある小さな村の教会の日曜礼拝に参加させていただきました。
小さな村といっても、教会の建物は大きくて立派なものです。大体300名ほどの礼拝出席者でした。
礼拝の中で自己紹介をかねて、日本の讃美歌を歌うように言われ、
わたしたちは「いつくしみ深き友なるイエス」を日本語で歌いました。
一節を歌うと、300名からの全会衆が、同じ歌をインドネシア語で自然に歌い出し、会堂が讃美で溢れました。
主にあって、わたしたちは一つであるという感動的な瞬間でした。
またミナハサ地方は、人口の90パーセントがクリスチャンで
そのほとんどがミナハサ福音キリスト教会のメンバーです。教会は地域社会と深く関わっています。
病院や学校も教会立です。その中の障害児の施設をいくつか訪問させていただく機会がありました。
盲人の子どもたちの施設では、子どもたちによる素晴らしい讃美と笑顔に出会いました。
関東教区の三浦議長が、自分の友人で盲人である塩見牧師のことを話しました。
この塩見先生が大学の神学部をトップで卒業されて、新聞にも報道されたということを聞くと、
まるでわがことのように、笑顔で思いっきり拍手をしていました。
神によって生かされていることへの感謝が子どもたちに溢れていました。
この施設を夕方に訪問したのですが、途中で停電があり、部屋全体が真っ暗になりました。
ほんの少し、彼らの感じている世界に思いを寄せることができました。
12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。
『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
今日、わたしたちに与えられた聖書の言葉は、わたしたちにとって最も大切な掟は何であるかが語られています。
このことは何度も説教で語られ、また皆さんも何度も学んだことがあり、読んだこと、聞いたことがあるでしょう。
しかし、「これを学び尽くした」とか、「聞き飽きた」、
「このことはもう分かっている。何か他の重要なことがあるではないか」と言うことはできません。
そうではなくて、わたしたちの、聞き、読み、学ぶことのすべてがここに集約されなければならないからです。
このイエスの言う最高の掟にわたしたちの為すこと語ることが収斂されていくのが、
わたしたちの人生の意味だからです。
「わたしたちの神である主は、唯一の主である」と言われています。
「一神教は、偏狭である」と考える日本人は多くいます。
しかし、この唯一真の神こそが、この世の中でバラバラになっている民族を一つにします。
インドネシアの人々も、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジアの人々も同じ神を信じる一つの民となることが、
この唯一真の神によって可能となるのであり、可能となっているのです。
日本は多神教だからといって、他宗教に対して寛容であったことは一度もありません。
仏教ですら、仏教が伝来した、8世紀ごろにも、物部氏と蘇我氏が、仏教を認めるか否かで争っています。
多神教は偏狭な宗教です。中世から近世に至るキリスト教迫害は、この神道の偏狭さを如実に表しています。
すべての神々を超えた唯一の神を信じるということは、
民族や部族、人種を越えた支配者があることを認めることです。
わたしたちは日本人であることや、それぞれの国籍や民族を超えて、
同じように守るべき一つの掟があることをイエス様は教えてくださっています。
それは、この地球の上に、さまざまな民族があるという多様性を容認しているのです。
多神教は、このような多様性を容認しません。
自分たちの神々を信じない者たちを支配し、征服しようとします。
今日、ヒズボラ問題で世界中からイスラエルは非難されていますが、
そのイスラエルですら、基本的には自分たちの国の定められた領有権の範囲内で
自分たちの支配権を確立しようとするだけであり、自分たちが軍事大国になって、近隣諸国を併合し、
世界帝国になろうという意志はありません。
この唯一真の神を心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、
力を尽くして愛することが人間の人生の意味です。
わたしたちが日常において為すこと、語ることがここに集約され、ここに起源してるかが問われています。
そして、わたしたちの日常はとのコントラストがここには明らかになっています。
この掟は、わたしたちの日常とはまったく違った正反対のものであることをわたしたちはまず認識しなければなりません。
なぜならば、わたしたちは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、
自分が愛されるように、自分が人から認められるように一生懸命だからです。
このことは、特に牧師先生方の間でも同じです。わたしの中にもあります。
今回のインドネシア旅行でも、はっと思わされることがありました。
ミナハサ福音キリスト教会の本部が新築され、その落成祝いが、今回の訪問の目的の一つでした。
大変に立派な建物がまだ建設途中ではありましたが、概要を現していました。
大洗ベツレヘム教会のことやなんだかんだで、
ミナハサ福音キリスト教会はわたしのことを大変に敬意を持って接して下さいます。
ミナハサ地方では「山本先生のことは有名なんですよ」なんて言われたこともあります。
すると案外、簡単に乗せられて、その気になってしまうものです。
この新しい本部の前で、同僚の日本人牧師が記念写真を撮ってくれというので、撮ろうとしますと、
そこへ車が来ました。わたしはその車を手の合図で止めて、写真を撮ろうとしました。
ところが車はのんびりと写真を撮っているわたしに「どけ」と、言わんばかりに、
少しアクセルを踏み込んで、わたしに近寄ってきました。
わたしは「なんて失礼な奴だ」と、思いました。心の中では、
「このわたしに対して」という思いがありました。
神様のためと言いながら、やっぱり自分エゴが居座っているのを確認した次第です。
向かってきた車を運転していた彼も、
たぶんミナハサ福音キリスト教会の中ではそれ相応の地位を占めている方であったのでしょう。
あるいは単に急いでいただけなのかもしれません。
このようなレベルの低い争いは案外、わたしたちの日常生活に満ち満ちています。
「牧師でもレベルは低いんだなぁ」とわたしの話を聞いて思うのではなくて、
「わたしの中にもそのようなことはある」と改めて思い起こしていただければ、大変にうれしく思います。
そのためにわたしはこの自分の恥をあえて語っているのです。
「隣人を自分のように愛しなさい」
この言葉は、またわたしたちに語られている言葉であり、わたしたちに向けられた掟です。
しかし、わたしたちはこの言葉で以て人を裁くのです。
自分を愛するように自分を愛さない隣人を呪うためにこの言葉を持ち出します。
わたしたちは神によって愛されている者たちです。神はわたしたちを愛し、慈しんで下さっています。
ですから、わたしたちは隣人がたとえわたしたちを愛さないとしても、自分を愛するようにその隣人を愛するのです。
神がわたしたちを愛して下さっている証明が、わたしたちに与えられている信仰です。
イエス・キリストを信じる恵みを与えられた者、
イエス・キリストを信じることができるようにされたということは、
神にとってわたしたちがかけがえのない存在ですということの証明です。
あなた方は高価で貴いと主なる神はおっしゃっています。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988