水戸中央教会 説教          2006年8月27日

「新しい人生の始まり」

マルコによる福音書10章46〜52節

 46:一行はエリコの町に着いた。
 イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、
 ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
47:ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、
 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
48:多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、
 「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
49:イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。
 人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
50:盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
51:イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。
 盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
52:そこで、イエスは言われた。
 「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、
 なお道を進まれるイエスに従った。

 この盲人の癒しの奇跡の記事を読む時、
誰もが「こんなこと、本当に起こったのだろうか」という、疑いを持つのではないでしょうか。
わたし自身、何度もこの箇所を読み、一度ならず説教をしていますが、
その度に、同じ疑いを持ちます。

 先年、天に召された小林伊三郎兄弟も、
「聖書の中で、このイエス様の奇跡を読むけれど、わたしには信じられない」
と、おっしゃっていました。
 若い時に洗礼を受け、イエス様の声を聞いた事があるとおっしゃっていた伊三郎さんです。
信仰的にも猛烈な厳しい方でしたが、
正直にご自分の分からないことを「わからない」とおっしゃっていました。
だからといって、伊三郎さんの信仰に何か欠けたところがあったと言うのではもちろんありません。
 
 病で痛みがひどいとき、
「イエス様、イエス様」と祈り続け、
「あんまり痛みがひどいともう痛みが分からないようになる。
 祈り続けていたら、突然、天国にいるような穏やかな気持ちになった」
と話していました。

 キリスト教会の説教においても、この箇所で中心となるのは、
主にこのバルティマイが「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたことです。
イエス様を信じ、祈り続けることの大切さが強調されます。
もちろん、それは正しいのですが、
そこには、どこかこの癒しの奇跡への不信をかわそうとするような考えが働いているようにも感じられます。
 あるいは、このことが信じられなければクリスチャンではないというようなことも言われます。
それもまたそうかもしれません。

 しかし、この奇跡への不信は、
この不信感がわたしの心の中にあると言うことを認めることがまず大切であるとわたしは思います。
 無理をして立派な信仰者になる必要はありません。
神様は、わたしたちの知恵と思いをはるかに超えた方です。
そのような神様を信じるということは、信じられないことの連続です。
神様を信じ、神様と出会うとき、わたしたちは信じられないことに出会うのです。
ですから、わたしたちがこの奇跡に対して不信の念を持ち、
「信じられない」と思うのはまさに、わたしたちはこの奇跡と出会っているからです。
この奇跡の記録は、世界中で2000年にわたって語り継がれてきました。
そして世界には何十億というクリスチャンがいます。
信じられない神をこの奇跡の記録は伝え続けてきました。

 ある意味、わたしたちはこの信じられない神を信じられるものにしようと試みます。
色々と理屈を付けたり、この出来事の意味を考えたりすることによって、
この奇跡への不信を覆い隠そうとしたりします。
 イエス・キリストの福音をキリスト教という宗教に分類するという考えも同様です。
人間が信じる数ある宗教の中の一つとして、これを信じることを正当化するのです。
 信じられないものを宗教とすることによって、人間が信じて当然のものとします。
福音を人間の世界観、風習、習慣、習俗、伝統、道徳の一つにしてしまうのです。

 しかし、イエス・キリストの福音は、このようなわたしたち人間の試みに、
お構いなく信じられないものとして留まっています。
 神様はわたしたちを愛しておられ、わたしたちにすべてのよいことを与えてくださると、
主イエス・キリストはおっしゃいました。
それは信じられないことです。なぜならば、
「今のわたしの人生には不足ばかりで、何のいいものがすべて与えられているのだろう」
と、思うからです。
 永遠の命が、わたしたちイエス・キリストを信じる者に与えられるということは、
驚愕すべきことです。
「そんなものあるか」という思いが誰の心の中にもあるほど、信じられないことです。

 イエス・キリストの福音を信じてイエス・キリストに従って来た者たちは、
その従い続けてゆく過程で、ふと過去を振り返ったとき、
神様がわたしにすべてのよいものをあたえて下さったことを確認します。
 その人生の終わりに際して、
「生きてきて良かった。イエス・キリストを信じてよかった。感謝だ」
という言葉を残して世を去ってゆきます。
 別にそれはやせ我慢でも見栄でもありません。
自然とそのような思いが心の中にわき上がってくるのです。
 また彼らがそんな盲人の目が開かれるというような奇跡を体験したというわけではありません。
しかし、わたしたちはその時、感謝の思いを持って、
この盲人バルティマイの奇跡の記録を思い起こすのです。

 そうなのです。福音書の根底に流れる感情、福音書を書かせ、
記憶に留めようとした原動力は感謝に他なりません。
主イエス・キリストに対する感謝が福音書には満ちています。
 盲人バルティマイは、その目が見えるようになり、感謝したでありましょう。
そして彼はイエスに従ってゆきます。
 イエス様が捕らえられた時にはイエスを見捨てて逃げたかもしれませんが、
おそらく復活のイエス様に出会い、再び、弟子たちのもとに戻ってきたでありましょう。
 肉の目ばかりでなく、信仰の目もイエス様の復活を通して開かれたのではないでしょうか。

 イエス・キリストの福音は、わたしたちを感謝の人生へと導きます。
そして心の底からわき起こってくる感謝をもたらします。
なぜなのか、それをわたしは知りません。しかし、わたしもこの感謝を知っています。
そしてイエス・キリストの福音が真実であるとわたしは知っています。
 あやまちも沢山あります。多くの人々を傷つけ、
人に言えないような恥ずかしいことも沢山ありますが、
主は、わたしと共にいて下さり、わたしを導いて下さっています。
それは信じられないことです。

 以前、わたしは神様が自分と共にいて下さるということは当然だと思っていました。
自分は正しい人であり、もちろん、それは人に公然と「自分は正しい」などとは言いません。
しかし、わたしは批判をする人でした。批判は、自分が正しいと言う前提がなければできません。
ですから、人を批判する者は、
単に自分は世界で一番正しい人だという主張をしているだけなのです。

 しかし時が経つにつれて、主の恵みによって、この自分の虚偽に気が付くようになりました。
この自分は正しいと主張する批判をわたしは今も止めることはできませんが、
わずかではありますが、人の立場を理解しようとするようになりました。
そのように徐々に信仰のうちに、
わたしは、神がわたしと共にいて下さるということは信じられないことだと思うようになりました。

 主は信じ、助けを求める者を救いだして下さる方です。
素晴らしいよい人である必要はまったくありません。
イエス・キリストを信じる信仰のゆえに神は、わたしたちとともにいて下さり、
わたしたちを導いていて下さいます。

 盲人のバルティマイがイエスに向かって叫び続けたとき、
多くの人々が叱りつけて、黙らせようとしました。
そのように、この世は、イエスを信じようとするわたしたちを、
「この時代に神を信じるなんて」とか嘲笑したり、
あるいは「クリスチャンなんてわたしはとてもなれません」
というような言葉で持ち上げたりします。
そしてイエス・キリストからわたしたちを引き離そうとします。
その時、聖霊が、わたしたちのイエス様への信仰を堅く守って下さいます。

「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」
というバルティマイの言葉は、彼の知識や考えから出て来たものではありません。
それは神が、彼に恵みを示されたからです。
聖霊の働きによって彼はこの言葉を語ったのです。
彼の目が見えるようになりたいという意志からは、このような言葉は出てきません。
「イエス様、目を癒してください」という言葉であったはずです。
 47節には、「ナザレのイエスだと聞くと」とありますように、
彼は「ダビデの子イエス」とは聞いていないのです。
 目は見えませんでしたが、バルティマイの心の目は確かに開かれていたのです。

 イエス・キリストの名を信じ、その名を呼ぶことができるということは、
神がわたしたちと確かに共にいて下さることの証です。
 このイエス・キリストの名を呼び続けましょう。
この名を呼び続けるわたしたちに、大いなる神の御業が約束されており、
わたしたちは、その終わりの時に、自分たちの人生を心から感謝することができるからです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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