水戸中央教会 説教      2006年8月13日

「主に従う道」

マルコによる福音書9章42−50節

 
42:「わたしを信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、
  大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
43:もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。
 両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
45:もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。
 両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
47:もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。
 両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
48:地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもないあ。
49:人は皆、火で塩味を付けられる。
50:塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。
 自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 先日、ご年輩の方から少しばかりですが、お話をうかがう機会がありました。
年を重ねて体が多少不自由になっていらして、
「迷惑を人に掛けるばかりとなった。自分などあまり生きる意味などないのではないか」
というような言葉をおっしゃっていました。
そのお話を聞きながら、自分は幸せな時代の幸せな地域に生まれたということを実感しました。
その時、その年輩の方の話を聞いている時間というのは、
古代中国の思想家や何千年も何万年も前の人類が夢極楽の理想とした瞬間ではないかと思ったのです。

 聖書にも、「80歳で死ぬ者は若いと言われる」というような言葉が旧約聖書に伝えられています。
わたしたちの日本では、今や100歳を超える人々が一万人以上いるとのことです。
老人が増えて困るなどと言うのがこの世の論調ですが、
わたしたちはまずこの老人が多いということを喜ぶべきであり、神に感謝すべきではないでしょうか。

 歴史上、誰も経験したことのない幸福な世界にわたしたちは生きています。
ほんの数十年前には、この水戸の地でも、
目の前で何万人という人々が無惨に死んでゆく光景が広がっていました。
今年も日本の各地で大雨や洪水が起こりました。異常気象だと言われ、心配はされています。
地球温暖化の問題は重要な問題でしょう。
 しかし、江戸時代にもそれ以前にも、日本にはいつも洪水や大雨があり、
沢山の人々が亡くなっています。
 その当時の大雨や洪水よりも激しい雨量であるにも関わらず、被害はそれほど大きくはありません。
時代劇などで徳川家康やさまざまの歴史的英雄の生き方にあこがれるかもしれませんが、
江戸時代のいかなる権力者よりも、現代日本の一般庶民は豊かな生活をしています。
徳川家康が飛行機に乗って外国へ行くということはありませんでした。
暑いからといって扇風機やクーラーがあるわけでもありません。
病気になったからといって、
MRIで調べようかというような治療が受けられるというようなことはありませんでした。
 上杉謙信も武田信玄も、気が付いたときは手遅れの病気で死んでいます。
畳、あるいはベッドの上で病で死んでゆけるということは、本当に幸福な時代です。
 にもかかわらず、わたしたちは、この時代に生きているということに対する感謝がありません。
サラリーマンの読む本には、
信長のようにとか、家康や秀吉のように生きるためにはどうするかということがテーマになっています。
当時の信長や家康などよりよほどに豊かな生活をしているにもかかわらず、
わたしたちは、さらなる豊かさを求めるのです。
人間の欲望の飽くなきことをわたしたちはここに見ます。
感謝をして分け合うということを人間はすることができません。
 聖書は人間は罪人であると言いますが、
その正しさをわたしは、この古代の人々から見ればユートピアに生きていても、
相変わらず争い、幸福を幸福と感じない自分の姿に見いだします。

 今日、わたしたちに与えられている聖書の言葉は、イエス様の言葉です。

9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、
 大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。

 「わたしを信じるこれらの小さな者」というのが誰を指すかについては、
マルコによる福音書では、二通りの可能性があります。
それはこのマルコ福音書九章後半に書かれています。
 一つは、イエス様を信じる小さな子どものような人々、
もう一つはイエス様の名によって悪霊を追い出しているが、
イエス様の弟子たちの言うことを聞かない人々です。

 このイエス様の言葉も素晴らしい画期的なものです。
なぜならば、わたしたちの心は、自分をつまずかせた人に対しては徹底的な注意を払い、
批判しますが、自分が人をつまずかせたことについては、何ら注意を払わないからです。
 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は…」
と言った直後に
「もし片方の手があなたをつまずかせるなら」
とわたしたち自身に注意が向けられています。
「イエス様を信じる小さな者をつまずかせる者、…海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」
というイエス様の言葉を聞いて、
「このイエス様の言葉は、誰々にぴったり当てはまる」
とか
「あの人が、わたしにした仕打ちはまさにこのイエス様の言葉の通りだ。
あのような人こそ海に投げ入れられてしまう方がはるかによい人だ」
と思い考えます。
 しかし、自分自身が、小さな者の一人をつまずかせるようなことをしているのではないか、
と気を配ることはあまり致しません。まったくしないと言っても過言ではないでしょう。 
 このような仕方において、わたしたちは神の前に立っているのです。
「あの人は海に投げ込まれたほうがいい人だ」
と言うとき、わたしたちは神の前に立っていません。神はわたしたちに臨んでいらっしゃいません。
神はわたしたちとともにありません。わたしたちが、神様の席に座ろうとしています。
神を押しのけて裁きと支配の王座に座ろうとしているのです。
 「わたしは海に投げ込まれた方がいい人ではないだろうか」
と疑問を持ち、自身を反省し
「わたしは海に投げ込まれた方がいいような人と同じことをしてきた」
と告白し、イエス・キリストに赦しを請う時、わたしたちは神の前に神と共にあるのです。
それは、神様がわたしたちを救いの恵みの内に入れてくださり、
神様がわたしたちをその御手の内に守っていてくださる証拠です。 

9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。
 両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
9:44 *地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。
 両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
9:46 *地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。
 両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。

 手や足や目を失うことは、恐ろしいことです。
わたしなどは、ちょっとからだの調子が悪いと健康を気にします。
そして、からだの不自由な人を見ると、大変な不幸を身に負ったかわいそうな人だと思います。
 しかし、本当の幸福は、まったく違った尺度を持っているのです。
 五体満足で健康であることが人生の意味ではないことが宣言されています。
永遠の命へは、
わたしたちの肉体が五体満足でなければならない訳ではまったくないことが言われています。
 わたしたちはこの世での自分の幸福を求め続けます。
そのために人を押しのけ、小さな者をつまずかせても何ら気に止めません。
小さな者をつまずかせ、人を押しのける所にこの世の幸福があります。

 先週の金曜日から土曜日に日立教会で合同の子どもたちの夏期学校が開催されました。
「ダビデとゴリアト」のお話がテーマでした。
 まだ少年であったダビデが敵のゴリアトという巨人の兵士を、
真の神様への信仰によって石投げでうち倒した話です。
 このダビデが後にイスラエルの王となり、
歴史上で今日に至るまでもっとも偉大な王として尊敬されています。

 この物語をお話や劇などを通して子どもたちと学ぶ中で、
わたしたちがいかにダビデのようになろうと言いながら、
実際はゴリアトのようになろうとしているか、あるいはゴリアトとなっているかを思わされました。
 こどもの世界ですと大人よりは多少分かりやすい所があります。
ダビデのようにというところでは、小さい自分と重ね合わせますけれど、
自分より小さな子どもに対しては、ゴリアトのように振る舞って、
いじめていることは珍しくありません。
そして、その矛盾に気が付きません。
「大人のわたしも全然かわらないなぁ」
と、わたしは思わされました。
 まぁ、子どもの場合はこのような過程はむしろ重要で、
そうして成長してゆくものでもあります。
 自分より強い者に対しては、大人のわたしもダビデのようにと考えておりますが、
自分より弱い立場にある人々に対しては知らず知らずの内にゴリアトのようになっています。
日本の豊かさの背後には、きっと貧しい国の犠牲があるのだろうと薄々気が付いてはいますが、
実際には無関心です。

9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。
9:50 塩は良いものである。
 だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。
 自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 塩とは清めるものです。それは神の言葉です。
自分自身の内に塩を持ちなさいとは、神の言葉を自分の内に、
つまり、人を裁くためではなく、
自分自身の行動を決定する基準として自分自身が神の言葉に従うことを意味しています。
 神の言葉を他人に当てはめて、他人を裁くことは、塩を自分の外側に持つことです。
塩気を外に出してしまって、自分自身にとって必要な塩気を失ってしまってはなりません。
そして、互いに裁きあうことによって、互いに平和に過ごすことができなくなります。

 この分かり切った真実をわたしたちは行うことができません。
ですから、主イエス・キリストは十字架で死なれたのであり、
わたしたちはイエス・キリストを信じているのです。

 自らが正しい者ではなく、罪人であり、人を裁く者であると告白することによって、
わたしたちは主の栄光を讃美し、福音の素晴らしさを証ししているのです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教