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水戸中央教会 説教      2006年8月6日

「キリストの体」

マルコによる福音書9章33〜41節

 33:一行はカファルナウムに来た。
  家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
34:彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いのかと議論し合っていたからである。
35:イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。
 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
36:そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
37:「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。
 わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 38:ヨハネがイエスに言った。
 「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、
 わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
39:イエスは言われた。
 「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
40:わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
41:はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、
 あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 本日、わたしたちに定められている福音書の箇所は、マルコによる福音書9章33〜41節です。
新共同訳聖書ではここは二つの部分に分かれています。まず、前半部33−37節を見てみましょう。

33:一行はカファルナウムに来た。
  家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
34:彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いのかと議論し合っていたからである。
35:イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。
 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
36:そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
37:「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。
 わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 弟子たちが、自分たちの中で誰が一番偉いかということで議論となった、
つまり言い争いとなったと聖書は報告しています。情けない話だと思うでしょう。
「イエスの弟子は、小者ばかりで、人徳に恵まれた人はいなかったのかなぁ」
と思うかもしれません。
 しかし、わたしたちが読みとるべきことは、そのようなことではありません。
わたしたちが自分自身の偽りのない真実を認めることが大切です。
そして、聖書は、そのことを勧めているのです。

 クリスチャンというと、何かいっぱしの人格者であって、
このイエス様の弟子たちが言い争ったようなことをしない人々だと、
クリスチャンであるわたしたち自身思っています。
そのように考えますと、本日の聖書の最も中心的なメッセージを見落としてしまうことが起こります。
「弟子たちは、言い争ったが、今、すべてを知っているわたしたちは言い争ってはならないし、
言い争う必要もない。
わたしは 『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』
というイエス様の言葉に従うように努力している。」
と、わたしたちはふつう思ってしまいます。

 わたしたちが聖書から読みとるべきは、まず、
「現実にイエス・キリストに従っていた弟子たちですら、
自分たちの内で誰が一番偉いかということで言い争いになることがあった」
ということです。
 そして、この言い争いの現実と事実は今もわたしたちの内に、
そしてわたしの内に確かにあるということです。
そしてこのわたしたちの中の醜い現実を認めることが大切なのです。
 「なんて情けない弟子たちだ。イエス様も本当に悲しまれただろう」
と、弟子たちを裁き、
そしてイエス様のお気持ちを思いやる立派なクリスチャンとなる必要はまったくありませんし、
それはとんでもない誤解です。
 このような弟子たちを裁く視点は、
まったく自分自身についての考察や観察を行わないことが前提となっているからです。
 「自分はイエスの弟子たちのように争わない」
と思っている人は大変な過ちを犯しています。
それは偽善者であり、その思いはイエス・キリストに従っていない証拠です。
その人は、謙遜なふりをして、実は傲慢なエゴイストです。

 聖書には色々と失敗話が出てきます。
 福音書では、特にイエスの弟子たちが、イエス様を全然理解しなかったり、
とんちんかんな行動を起こしたりします。
しかし、その弟子たちの失敗や過ちを見て、「情けない弟子たちだ」と思うことはできません。
 福音書は言うまでもなく、
イエス様が十字架に付けられて殺され、復活して、すべてが明らかになってから書かれました。
実際にイエス様に従った弟子たちが、時を経て、一人また一人と世を去ってゆく中で、
「記録に留めて置かなければ」という意図をもって福音書は書かれました。
弟子たちの回想録をまとめたようなものが福音書です。福音書の内容を証言したのは弟子たち自身です。

 回想録は世の中に沢山あります。NHKのプロジェクトXのヒット以来、
似たような番組が沢山ありますが、それらはどれも、いかに人々が頑張ったか、努力したか、
へこたれなかったかを伝えています。
回想録を著す人で、いかに自分が情けなく、
どうしようもない愚か者であったかを宣伝することは通常ありません。
時代流れの中で消えゆく栄光を留めようとするのが、この世のふつうの回想録です。

 弟子たちも、ふつうの回想録ならば、いかに自分がイエス様に勇敢に従ったかとか、
イエス様から誉められたこととか、
イエス様を師と仰いだ判断の素晴らしさなどという自分の業績や長所、
素晴らしさを伝えようとしたでしょう。
しかし、そのように弟子たちはしませんでした。
自分たちの欠点とあやまち、
そして、それを超えたイエス様の素晴らしさと愛を後の時代に伝えようとしたのです。
自分の欠点とあやまちが言えるほどに、弟子たちは謙遜な人々です。
そして事実を直視することのできる自由な開かれた知性を弟子たちは主イエス様から与えられたのです。

 「メシアニック・シンドローム」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。
メシアとはキリストを意味する皆さんよくご存じのメシアです。
「救い主症候群」とでも言うべきでしょうか。
この症候群に分類される人々は、困っている人々を助けることによって自分自身の存在を確認します。
自分の生きていることの意味を、困っている人を助けることに見いだしています。
このような人は一見、素晴らしい人のように見えます。
実際、社会の中でも人々から頼りにされていたり、責任ある地位についていることもまれではありません。
いや、むしろ人々から頼りにされたり、責任ある地位につくことが、
このシンドロームにある人々の目的なのですから当然です。
彼らは、自分を常に助ける側、援助する側に置くことによって、
自分に助けられる人々、援助される側の人々に対する優位を確認しています。
 ですから、謙遜に人々に仕えるように見えて、
実は、「誰が一番偉いのか」と言い争った弟子たちと心理的にはまったく同じです。
人を助けるたびに、このような人々は、「わたしが一番偉いのだ」と主張しているのです。

 メシアニック・シンドロームの人々はセルフ・イメージが低いと言われます。
つまり、自分自身についての価値意識、あるいは自分自身の命と人格の大切さを体験していません。
幼児期に愛されて大切にされたという経験が不足しているために、
それを自分で補おうとして、困っている人を助けると言われます。

36:そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
37:「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。
 わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 「誰が一番偉いのか」と言い争っていた弟子たちの中に、
一人の子どもを連れてきて、イエス様は、
「この子どもをわたしの名のために受け入れる者は、わたしを受け入れる」
とおっしゃっています。何が言われているのでしょうか?
 わたしがどんな能力があり、どんな富を持ち、社会的に尊敬されているかが問題ではないと言われています。
イエス様をいかに大切に思い、愛するかが問題なのです。

38:ヨハネがイエスに言った。
 「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、
 わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
39:イエスは言われた。
 「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
40:わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
41:はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、
 あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 ここに先ほど触れました「メシアニック・シンドローム」、
「救い主症候群」のもう一つの側面がここに明らかになっています。
そして、この「救い主症候群」がなぜ病的なものとして分類されるかの理由が示されています。
 このお助けマンを演じる人々は、
その困っている人々が自分以外の人々に助けられたりすることを拒否したり、妨害したりします。
 またその困っている人々が、自分の考えているように助からなければならないと考えるのです。
ですから、自分の考えているように助かるのでなければ、助かる道をふさいだりすることさえいたします。
 このようなことは、珍しいことではなく、わたしたちの日常生活の中にかなり頻繁に起こることであり、
わたしたち自身も陥ってしまうことがよくあります。
「そんなことは、わたしにはない」と、確認することが求められているのではありません。
このことは実際に弟子たちに起こったのです。

 わたしの内に、
またわたしたちの内にそのようなメシアニック・シンドローム的な思いがあることを見いだすことが大切です。
 信仰とは、主観的なものではなく、客観的なものです。
自分がその人を助けるかどうかが問題ではなく、その人が助かるかどうかが問題なのです。

41:はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、
 あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 このメシアニック・シンドロームは、わたしたちの個人ばかりではなくて、
わたしたちの教会そのものにも当てはまります。
 この世の中には沢山の教会があります。
その中で、わたしたちの教会だけが正しいと言い始めたら、わたしたちは病的になっています。
正しいのは、神であり、救いはイエス・キリストその方からのみ与えられます。
 わたしたちが与えるのではありません。神への感謝のあるところ、その報いは必ずあります。
 神にのみ正しさがあり、神のみが崇められるべき方です。
わたしが崇められたところで何の意味もありません。
唯一真の真実を目指して、わたしの栄光ではなく、神の栄光のために、この週も歩み出したいと願います。

 キリストの弟子であることの証しは、素晴らしい人格者となることではありません。
自らのあやまちを告白することです。
 イエスの弟子たちが、自分たちの本来なら恥ずべき争いを後世に伝えようとしたことによって、
わたしたちは、自分たちの気が付かずにいた高慢を知ることができました。
わたしたちはイエスの弟子たちに心からの感謝と敬意を捧げる理由があるのです。
そしてその感謝と敬意に対して必ず報いがあることはすでに明らかです。
一杯の水どころでは済みません。

 神の栄光が、わたしの心の闇を照らし出してくださいますように。
気づかずにいるわたしの傲慢を神がうち砕いてくださいますように。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教