水戸中央教会 説教       2006年7月30日

「祈りと癒し」

マルコによる福音書9章14−29節

 
14:一同がほかの弟子たちのところに来てみると、
  彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
15:群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
16:イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
17:群衆の中のある者が答えた。
 「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
18:霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。
 すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。
 この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
19:イエスはお答えになった。
 「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。
 いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。
 その子をわたしのところに連れて来なさい。」
20:人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。
 その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
21:イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。
 父親は言った。「幼い時からです。
22:霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中に投げ込みました。
 おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
23:イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
24:その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
25:イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。
 「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。
 二度とこの子の中に入るな。」
26:すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。
 その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
27:しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
28:イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、
 「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
29:イエスは、
 「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 イエス様がペトロとヤコブ、ヨハネだけを連れて、山に昇り、ご自身の栄光の姿を現されました。
そして、山から降ってくると、群衆が他の弟子たちを取り囲んで大変な騒ぎとなっていました。
 旧約聖書では、モーセが十戒を神様から頂くために一人でシナイ山に昇ります。
そして帰ってくるとイスラエルの民はモーセのいない間にアロンに要求して、金の子牛を作り、
神ならぬものを神として大変なことになっていました。
 モーセとイスラエルの民ほどではないとしても、イエス様が山から下りてきた時、
残された弟子たちは、窮地に立たされていました。
 ある人が、霊に取り憑かれた息子を、弟子たちのもとに連れてきて、
霊を追い払うようにお願いしました。この霊の働きは、てんかんなどと言われた病気とよく似ています。
 
「この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。
すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。
この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
と父親はイエスに状況を説明します。
 そして、おそらく癒すことのできなかったイエスの弟子たちに対して律法学者たちが、
「そらみろ、できないではないか。お前たちのしていることはペテンだ。偽物だ」
というような議論がなされていたと考えられます。
 イエス様は、
「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。
いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
と言って、子どもに取り憑いている霊を追い出します。
その場の混乱は収拾され、家に戻った弟子たちは、ひそかに、
「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」
と尋ねます。
イエス様は、
「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」
と答えられたと聖書は伝えています。

 わたしたちの祈りが問われています。
このイエス様の話を聞いて、わたしたちは
「誰々が病気の時、わたしは一生懸命に祈ったけれど、その人は癒されなかった。
だから祈りなどというものは意味がない」
とか、
「キリスト教信仰など無意味だ」「宗教などやっぱり幻想だ」
と考えがちですが、まさにこのわたしたちの態度が、ここで白日の下にさらされ問われているのです。

 マルコによる福音書3章によりますと、
弟子たちにはすでに悪霊を追い出す力がイエス様から与えられていました。
ですから、これまでに弟子たちは悪霊を追い出すことをしていました。
 ところが、このてんかんの様な症状を引き起こす悪霊を追い出すことができませんでした。
「なぜ、自分たちに追い出すことができなかったのだろうか?」
という疑問を弟子たちが持つことは自然です。
その原因は、悪霊追い出しの方法が間違っていたのでも、
何か特別な呪文があったということでもありません。
それは、「祈り」だとイエス様はおっしゃっています。何か特別なことではないのです。
祈りは宗教生活、信仰生活に欠かせないものです。
そして、またあまりにも当たり前でおろそかにされがちでもあります。

 わたし自身もそうですが、祈りにおいて、わたしたちは大抵、自分の願望や願いばかりを数え上げて祈ります。
それも間違いではありません。
 しかし、このような悪霊を追い出すというような業をなす賜物が神から与えられるには、
わたしたちのふだんの祈り、そして、わたしたちの心の状態にはふさわしくありません。
 祈りとはどのようなものかを、イエス様は主の祈りによって教えてくださいました。
「天にまします我らの父よ、願わくば、御名を崇めさせ給え」
と、祈るように教えてくださいました。
 しかし、わたしたちは祈りにおいても、神の栄光を求めるのではなくて、自分の都合や利益を求めています。
自分が崇められることを求めています。ですから、わたしもまた癒しをなすことはできないのです。
そして、神様の恵みによって、わたしには人を癒す様な賜物が与えられていないと、
わたしは自分自身に関して思います。
 なぜならば、わたしは人前では賢く、謙遜な風に見えるかもしれませんが、
神の前ではわたしは愚かであり、高慢だからです。
もし、そのような賜物が少しでも与えられたとしたら、
もう得意の絶頂で、そのことを鼻に掛け、世界中にそのことを宣伝し、新興宗教を作りあげ、
悪魔に命を売り渡した愚かな教祖に成り下がってしまうだろうと思うからです。

 子どものころ、歴史ものなどを読みますと、
武将などで、戦いに勝利し、成り上がり、高慢になって人を人とも思わない態度に出たり、
あるいは大王の子どもが甘やかされて育ち、愚かな君主になって没落してしまうということが、
わたしには本当に愚かなことに見えました。
「そんな高慢になったり、甘やかされてはいけないのは分かり切ったことだ」
と子ども心に思っていました。
 しかし、いざ、成長してなにがしかのことを為し遂げたというような思いを自分が持つと、
知らぬ間に高慢になっている自分を見いだすようになりました。
しかも、高慢さというのは、高慢な時は気が付かないというのが特徴です。
高慢な自分がうち砕かれて、たたきのめされたときに、そして、ただ叩きのめされただけではダメで、
そのたたきのめされた自分を神様が省みてくださって、救って下さらないと、気が付きません。
 高慢な自分がうち砕かれるだけでは、恨みやねたみに高慢が姿を変えるだけで、
高慢なあるいは高慢だった自分には気が付かないのです。

 昨日の新聞を見ていましたら、小説「マリー・アントワネット」の記事がありました。
20年ほど前に流行った「ベルサイユのバラ」の種本ということで少し紹介されていました。
国民の財産を浪費に浪費を重ねたマリー・アントワネットの最後のせりふは、
「なぜ、…神は…わたしという平凡な女にふさわしい平凡な運命をあたえてくださらなかったのだろう…」
ということでした。小説の中のせりふと思いますので、本当に彼女がそう言ったのかどうかはわたしは知りません。
しかし、与えられない幸せというのがあるのだとわたしは思いました。
 わたしたちの父なる神は愛の方で、わたしたちを深く愛してくださっています。
わたしには癒しの賜物、人の病を治したり、悪霊を追い出すような力は与えられていません。
それは神の愛によって、わたしが愚かな取り返しのつかない過ちを犯すことから守られているからです。
そして、ここにわたしたちが伝道に召し出されている根拠があります。

 わたしには癒すことはできないが、イエス様はお出来になるからです。
わたしはこの自分自身の高慢から逃れることはできませんが、
イエス様にお願いをすることはできるからです。
人々に、イエス様のことを伝えることはできるからです。
そこにこそ、わたしを高慢の罪から救い出す道があります。
 わたしあるいはわたしたちが人々を救うのではありません。
わたしたちには救い得ないことをイエス様はなしてくださるのです。
 本日の聖書箇所においても、弟子たちがなし得なかったことをイエス様がなしてくださいました。
わたしが為すのではなくて、イエス様が為してくださいます。
 主イエス・キリストは、この地上に再びいらっしゃるとおっしゃいました。
わたしたちはですから主の再びいらっしゃるのを待ち望むのです。
そしてわたしたちは神の大いなる御業を見るのです。イザヤ書29章には次のようにあります。

29:17 なおしばらくの時がたてば/レバノンは再び園となり/園は森林としても数えられる。
29:18 その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/
   盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。
29:19 苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。
29:20 暴虐な者はうせ、不遜な者は滅び/災いを待ち構える者は皆、断たれる。

 わたしたちは、このイザヤ書に示されている「その日」をイエス・キリストにおいて確かに見たのです。
「その日」は単なる空想やあこがれではなく、現実にあることをイエス・キリストにおいて知らされました。
そして、再び来る確かな「その日」に向かって歩んでいるのです。
 わたしたちが毎週礼拝に集うのは、その確かな「その日」に向かってわたしたちが歩んでいる歩みそのものです。

 わたしたちは誰一人として、悪霊を追い出すようなことはできないにもかかわらず、
いかにお高く止まっていることでしょうか。
あるいは、そのような業がなにか偶然とも言えるような方法で不確かに起こったくらいで、
あたかも自分の力か信仰が、それを引き起こしたかのようにいとも簡単に思いこむことでしょうか。

 主の前に謙遜に、主の栄光を崇めることが求められています。
わたしが何か特別な能力を持つ必要はないのです。
わたしが何か特別なことができて、わたしの存在が人々から注目され認められることではなくて、
ただ主イエス・キリストが注目され、人々がイエス・キリストを知ってくださればそれでいいのです。
わたしたちの幸福はわたしたちを通してイエス・キリストが崇められるところにあります。
喜びの中にある人々は主を賛美せよ。
悲しみの中にある人々は主を賛美せよ。
主イエス・キリストはわたしたちの希望です。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教