水戸中央教会 説教              2006年7月16日

「自分の心の中の悪の芽」

マルコによる福音書8章14〜21節

14:弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
15:そのとき、イエスは、
 「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
16:弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
17:イエスはそれに気づいて言われた。
 「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。
  心がかたくなになっているのか。
18:目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
19:わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」
 弟子たちは、「十二です」と言った。
20:「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」
 「七つです」と言うと、
21:イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

 イエス様とその弟子たちが、舟で次の村へ移動している時のことです。
弟子たちは、パンを持ってくるのを忘れ、舟の中に一つのパンしかありませんでした。
おそらく
「なぜ、パンが一つしかないのか?」、
「これでは向こうへ着くまでにお腹が減ってしまう。」、
「イエス様だってお疲れなのに」
と、いうような話が持ち上がったと考えられます。
 この時、イエス様は弟子たちに向かって
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」
と、おっしゃいました。この言葉の意味は、
「食べるパンのことよりももっと大切なことがある。
自分の心の中にファリサイ派の人々やヘロデ王のような考えが紛れ込んでいないか気をつけなさい」
ということでしたが、弟子たちは、自分たちがパンを忘れて来たことを戒められているのだと勘違いします。

 イエス様は、この直前に4千人の人々をわずか7つのパンで満腹にするという奇跡を行っています。
そして余ったパンは七籠になったほどでした。
弟子たちの議論は、
「イエス様がせっかく大変な奇跡を起こして、わずかのパンをあんなに増やしてくださったのに、
それを無駄にして、全部忘れて、この一個のパンを持ってきただけなんて、何ていうことだ。
馬鹿も休み休みにして欲しい」、
「えっ、あんなにあったパンを全部置いてきたのか」
というものではなかったかと推察されます。
 
 これに対して、
「そもそもあの四千人の人々を七つのパンで満腹させたのは、誰であり、
あなた方の前にいるのは誰なのか」
という意味のことを、イエス様はおっしゃった訳です。

 「ファリサイ派の人々のパン種」とは何でしょうか?
「ヘロデのパン種」とは何でしょうか?
 このことについて思いを巡らすのが、イエス様が弟子たちに、
そして今日、わたしたちに与えられた課題です。
イエス様はファリサイ派の人々に対して、偽善者という厳しい批判の言葉を浴びせています。
外面は清く正しく見えますが、内面は腐りきっている。
人のために親切で行っているように見せながら、実は自分の見栄と虚栄を満足させるために行っている。
それが「ファリサイ派の人々」という言葉で以て言われている「悪」です。

 ヘロデは、当時、イスラエルをローマの庇護を受けながら支配していた王でした。
マルコによる福音書6章では、妻のヘロディアの策略にまんまと乗せられて、
不承不承、正義と真実の人洗礼者ヨハネを殺すことになってしまいます。
権力と富に惑わされる象徴と言うことができます。

イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」
と戒められた。

 イエス様が、弟子たちを戒められたということは、
わたしたちがイエス・キリストを信じてクリスチャンになったからといって、
このファリサイ派の人々やヘロデ王のようになってしまう危険があるということを意味しています。
まさに、パンを作るときに使われるイースト菌などのパン種のように、
わずかのパン種が、練った小麦全体に広がってしまうのです。

 イエス・キリストの十字架の血によって聖なるものとされたわたしたちは、
聖さを保ち続ける努力をする必要があるのです。
それが、わたしたちの人生の意味であり、生きることの意味です。
それは何か、苦しい大変な努力ではありません。苦行をしたり、
荒行をしたりしてわたしたちは清められていくのではありません。
このファリサイ派のパン種とヘロデのパン種に気が付いて取り除いていくことが
わたしたちの人生を豊かに素晴らしく輝いたものにするものです。
それは、わたしたちがイエス・キリストによって本当に救われていることを確認してゆく作業です。
このパン種を取り除くことは、わたしたちにはできませんし、する必要もありません。
わたしたちが為すことは、このパン種の存在に気が付いて、
取り除いてくださるように神様に祈ることです。

 ファリサイ派の人々は、聖書を生活の中で実践していくためと称して、さまざまな規則を作り続けました。
「安息日という休みの日を守るためにはどうしたらよいのか」
と、真剣に考えて、何歩以上歩いてはいけないとか、何歩歩いてよいとか、
あるいは、イエス様が非難されたように、
「安息日に命に関わるものでない限り病気を治してはいけない。それは労働だから」
と定めました。
そのこと自体は大変よいように思われます。
一つの戒めが神様から与えられて、その戒めを忠実に守るために、
「このような場合はどうするか、あのような場合はどうするか」と考えたのです。
 たとえば、
「日曜日は教会の礼拝に出席しましょう」
と、言いますと、人生に起こってくる色々な出席できない急用の例を持ち出して来て、
「これはよい、あれはいけない」
と、言い出すことがわたしたちの中にもよくあります。
そして、その決めたことを持ち出して人を裁きはじめることをわたしたちはいたします。
つまり裁く方は神様お一人なのに、わたしたちが人を裁くのです。
そして、このように言いますと、裁き、罰しなければならない時に、悪を放置するということを平気で行います。
 
わたしたちの日本基督教団はこの傾向がかなり強いので注意を必要とします。
律法主義にならないようにと注意して、裁くのは神様であるとし、注意すべきこと、
罰すべきことが放置されてしまうことが度々起こります。
これも律法主義であり、ファリサイ派の人々のパン種です。
規則を守ることにより、自分の正当性と正しさを確認し強化してゆくことが
ファリサイ派の人々のパン種です。
これはこの世の考え方であって、わたしたちキリスト教会の教えではありません。

イエス様がおっしゃったのは、
「悔い改めて、福音を信じなさい」
ということでした。
「悔い改め」とは、自分が間違っていたことを認めることがなければ、悔い改めは起こりえません。

 ヘロデのパン種は、自分が王となってしまって、神の掟に逆らうことです。
 わたしは、こちらに赴任して参りまして、大洗ベツレヘム教会と交流の手伝いをさせていただいています。
色々と援助をしたり、依頼があって助けたりとしていますと、
なんだか自分が仕切るようになってきます。
自分のことわりなく、何かがなされると腹が立つようなことが、起こります。
これも自分が王となってしまうことの一例です。
正直に申しますと自分が王となろうとして、このような援助を行っているのです。
だから助けない方がいいのだということではありません。
わたしはこのような高慢から救われるようにますます祈る必要があるのです。

 なぜ、わたしたちはこのようにファリサイ派のパン種やヘロデのパン種によって惑わされ、
その本質において、本来あるべきものとは似ても似つかぬものになってしまうのでしょうか。
外見は、同じなで、変わりません。変わらないどころか、より膨らんで立派にさえ見えるのですが、
本質は似ても似つかぬものになってしまうのです。
 それは、一言でいうならば、不安と不信仰です。
わたしたちは自分自身が救われて、永遠の命に与っているという確信がないから、
自分でその確信を作り出そうとするのです。

17:イエスはそれに気づいて言われた。
 「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。
  心がかたくなになっているのか。
18:目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
19:わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」
 弟子たちは、「十二です」と言った。
20:「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」
 「七つです」と言うと、
21:イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。


 イエス・キリストは確かにわたしたちとともに今もいらっしゃり、わたしたちを導いてくださっています。
たとえわたしたちが、人々から尊敬されず、何の賞賛の言葉も与えられないとしても主は共にいて下さいます。
人々の非難と批判にさらされて、恥の中にあるときも、イエス様はわたしたちを拒んだりはなさいません。
 わたしたちは、たった一つの命を抱えて生きています。
丁度、弟子たちがたった一つしかパンを持たなかったのと同じです。
イエス様はそれで十分であるとおっしゃっているのです。
このわたしたちのたった一つの命を用いて神様は偉大な業を為して下さるのです。 

あなたが生きているということはそれだけで素晴らしいことです。
神は、あなたが生きていらっしゃることを喜び、たとえあなたが苦難の中にあろうとも、
あなたに苦難以上の報いを与えて下さることができる方ですから、
あなたを苦難の中に放置されているのです。その苦難には大きな報いがあるのです。

 人生の困難なことは沢山、わたしたちに降りかかってきます。
病や事故や不幸がわたしたちを襲います。
わたしたちの目には取り返しの付かないことも、神の目には、そうではありません。
あなたが失った、信用、評判、健康、財産が問題なのではありません。
あなたが、悔い改めないことが取り返しのつかないことなのです。

 すべてを超えていますわたしたちの神に栄光が限りなくありますように。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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