水戸中央教会 説教            2006年7月9日

「神の業を行うために」

マルコによる福音書6章14〜29節   

 
14:イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。
 「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。
  だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
15:そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、
 「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
16:ところが、ヘロデ王はこれを聞いて、
 「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
17:実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、
 そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
18:ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」
 とヘロデに言ったからである。
19:そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
20:なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、
 彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、
 なお喜んで耳を傾けていたからである。
21:ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、
 ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
22:ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。
 そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
23:更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
24:少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、
 母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
25:早速、少女は大急ぎで王のところに行き、
 「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
26:王は非常に心を痛めたが、誓ったことであるし、
 また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
27:そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。
 衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
28:盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
29:ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

 先週、マルコによる福音書6章の最初の部分を説教させていただきました。
故郷のナザレでイエス様の伝道活動は、失敗に終わりました。
 福音を受け入れて、永遠の命を得るか、あるいはこの世とともに滅びてしまうかは、
語る者が決めるのではなくて、
あくまでその福音を聞く者が自ら決めるということをみなさんにお伝えしました。
そして、福音を語ることは、拒否や拒絶されることがあるということ、
そして拒否や拒絶にあったからといって、わたしたちが落胆する必要はないことを学びました。
 福音を語った相手が拒絶するか受け入れるかは、わたしたちの責任ではないからです。
聖書は福音を語ることについて、
わたしたちに「落胆するな。語り続けなさい」と励ましの言葉を語っています。

 イエス様でも受け入れられず、馬鹿にされることがあった訳です。
なんの力もなく、その考えや行いにも欠点だらけのわたしたちが、人々の拒否にあったり、
語る福音が受け入れられなくても当然と言えます。
むしろ受け入れられることの方が不思議であり、
それは一重にイエス・キリストの力と神の恵みです。

 本日、与えられている聖書の箇所は、先週の続きで、ヘロデ王が登場します。
ヘロデ王が洗礼者ヨハネを尊敬しながらも、結局、処刑してしまった出来事が伝えられています。
 ここには、わたしたちに対する懇切丁寧な警告がなされています。
わたしたちはこのヘロデ王を批判することができません。
なぜならば、ヘロデ王は、わたしたちクリスチャンの姿、そのものであるからです。

 ヘロデ王がなしたような残虐極まりなく、不道徳で真理に反する行動は、
わたしたちのふつうの市民とはかけ離れているように思われます。
 しかし、ヘロデ王の行った本質的過ちを、
自らの日常生活の中に見いだすことが出来るならば、わたしたちは幸いです。

 イエスの評判が高くなり、有名となり、ヘロデ王の耳にも入りました。
そしてヘロデはイエスに対して、
「自分が首をはねたヨハネが生き返ったのだ」
と言います。実際、この認識はあながち間違いとは言えません。
イエス様の教えたこととヨハネの教えたことには共通点が多くあったからです。
生き返ったヨハネならば超自然的な奇跡を行う力があってもおかしくないとヘロデは思ったのです。
彼は神の言葉の権威と正しさを知る人でした。
 ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚していました。
このことを不道徳なこととヨハネは非難しました。
ヘロデのなしたことが不道徳であったと言うことは現代のわたしたちにも想像はつきます。
「不倫はよくないことだ」
とヨハネは言ったのです。
 これに対してヘロデは、人をやってヨハネを捕らえさせ、牢獄につないだということです。

 わたしたち自分自身を振り返ってどうでしょうか。
ヨハネは神の言葉を表しています。
聖書の言葉の中で、わたしたちに都合の悪い部分を、わたしたちは読まなくても言いように、
聞かなくてもいいように、耳や目をふさいでいないでしょうか。
 聖書というのは本棚という牢獄の中に入ったままではないでしょうか。
また自分にとって都合の悪い言葉が出てくると、悔い改めるのではなくて、
勝手な解釈を施して、その言葉の力を奪っていないでしょうか。
自分勝手な解釈、自分の気に入る解釈を求めて、
聖書の言葉を牢獄に閉じこめているのではないでしょうか。

 ヘロデ王の妻となったヘロディアは、このヨハネを恨んで、彼を殺そうとしていました。
ヘロディアもヘロデ王と同じように、その昔いた、とんでもない邪悪で狡猾な女ではありません。
わたしたちとはなんの関係もない過去の人ではありません。彼女はわたしたちの心の中に今もいます。
 この存在に気が付くのは非常に難しいことです。
ヘロデ王自身もヘロディアがそのような恐ろしい思いを持っていたとは気が付いていませんでした。
ですからヘロディアが、自分の娘を用いて策謀を巡らしたとき、
まんまとその策に引っかかってしまいました。

 「自分は、こんな恐ろしいことをするような悪人ではないし、そのような権力もない。」
と思われるかも知れません。しかし、それは本当でしょうか。
ただ、そのような環境にないから、
わたしたちはあたかも善人であるかのような顔をしているだけではないでしょうか。
 わたしは戦争は体験していませんが、体験された方の話を聞くと、
「人間はこんなむごいこともする恐ろしい生き物だということを知った」
と、語ってくださることは多いです。そして今も戦争は絶えることがありません。
わたしたちの日本も戦争に参加しています。
 宇宙人を相手に、わたしたちは今、地上で戦争をしているのではありません。
同じ人間が戦争をして、殺し合っています。
殺し合っている人間同士はまったく同じホモ・サピエンスであって、
生物学的にもあらゆる面から同じ人間です。

 わたしたちの心の中にはヘロディアが確かにいます。
何か自分にとって都合の悪いことがあからさまにされそうになったり、
自分の存在そのものが危機にさらされると、いくらそれが正しいことであっても、
その正義をいつか亡き者にしようとする恐ろしい考えが心の中にとごってくるのです。

20:なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、
 彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、
 なお喜んで耳を傾けていたからである。

 わたしたちの心の中には、また確かにこのヘロデのように、
御言葉に耳を傾け、御言葉を喜ぶ者が確かにいます。
そしてまたわたしたちと同じように、
御言葉がわたしたちの実生活に干渉をしてこない限り、御言葉を喜ぶのです。
「確かに人間は、他人を大切にして愛するべきだ。
自分自身を愛するように人を愛するべきだ。聖書はいいことを言っている。」
と、思い、いいますが、
「あなたは聖書の教えるようにはなさっていませんね。たとえば、これこれ」
と、指摘されはじめると、わたしたちは不快になり、御言葉から遠ざかっていくのです。
 そしてヘロデは、少し善人のようなところがあるように報告されていますが、
結局はヘロディアとなんの変わりもないことが明らかになります。

21:ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、
 ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
22:ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。
 そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
23:更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
24:少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、
 母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
25:早速、少女は大急ぎで王のところに行き、
 「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
26:王は非常に心を痛めたが、誓ったことであるし、
 また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
27:そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。
 衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
28:盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。

 「王は非常に心を痛めた」とありますが、誓ったし、客の手前、
つまり王のこけんに関わる、要は虚栄心からヨハネを殺すことにしたのです。
 ヘロディアがヘロデ王との結婚を望んだことも同じでした。
別にヘロデという人への人格的な尊敬があった訳ではないでしょう。
自分が王妃として権力を握ることができるという権力欲と虚栄が彼女を突き動かしたものでした。

「ヨハネの首を」というヘロディアの娘の願いに対して、
ヘロデは、
「それはダメだ、ヨハネの首は、この国のすべてに勝る」
という真実をいうことができたにもかかわらず、しませんでした。

 神の御言葉は、
わたしの命に勝るという思いをわたしたちは持っていると言える者は少ないでしょう。
ですから、わたしも含めてわたしたちはヘロデ王とそう変わりがないのです。

 そして、この救いがたいヘロデ王のようなわたしたちを救うためにイエス・キリストは、
神の御言葉のためにご自身の命を捧げてくださったのです。
あの残虐なヘロデにも神は再びチャンスを与えられました。

ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。

 しかし、ヘロデは、この生き返ったヨハネを自ら迎えに行くことは致しませんでした。
生き返ったヨハネどころか、すべての人間の救いをもたらすイエス・キリストが世に現れたのに、
彼は、このキリストを受け入れることが出来ませんでした。
なぜでしょうか。
それは彼が王であったからです。自らの思いにこだわる者は皆ヘロデ王と同じ王です。
自分の王様です。そのような者はイエス・キリストを受け入れることが出来ません。
人生最大の過ちを正すことができません。

 今は恵みの時、救いの時です。わたしたちは今、イエス・キリストを信じましょう。
イエス様を王として心に迎え入れましょう。
 よい人になろうとする必要はないのです。素晴らしい人になる必要はないのです。
ただ、わたしの心の中にある悪を認め告白することです。
「素晴らしい人であるかのようなふりをしていますが、
わたしは素晴らしい人でも、よい考えを持った人でもありませんし、
よい行いをする人でもありません」
と告白することです。
 その時、主イエス・キリストがあなたの主となり、王となるのです。
すべてのよき業は神のなす業です。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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