水戸中央教会 説教            2006年7月2日

「イエス・キリストを伝えるために」

マルコによる福音書6章1〜13節

 
1:イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
2:安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。
 多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。
 「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。
 この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
3:この人は、大工ではないか。
 マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。
 姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるいるではないか。」
 このように、人々はイエスにつまずいた。
4:イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、
 親戚や家族の間だけである」と言われた。
5:そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、
 そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6:そして、人々の不信仰に驚かれた。

 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
7:そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。
 その際、汚れた霊に対する権能を授け、
8:旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
9:ただ履物は履くように、そして、「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
10:また、こうも言われた。「
 どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
11:しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、
 そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
12:十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
13:そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 イエス・キリストの福音を伝えるということはわたしたちクリスチャンの使命です。
 しかし、このことは容易なことではありません。
自分が教会に来ているからと言って、
それでは「あなたも教会に来ませんか」と誘うのは、誰でもすぐに出来ることではありません。
そして、それが簡単に出来るようならば、日本においての宣教活動は、
現在のように低迷しているはずはありません。

 今年の関東教区(日本基督教団)の総会資料によりますと昨年、
関東教区全体で30名ほど増加した程度です。
 わたしたちの関東教区は群馬、栃木、新潟、埼玉、茨城と五県にまたがり、
150程の教会・伝道所があります。
 宣教部委員長のお話によると
「それでも、減っていない。わずかではあるが増えている」
ということで大変に評価すべきことだと伺いました。
 東京などの都市部を除くと地方の他のところでは減少に転じているところも少なくないということです。
福音伝道は後退しています。
 「だからキリスト教はもうだめなのだろうか?」
とか
「伝道をしても無駄ではないか?」というようなことを、
今日、みなさんにお話ししようと言うのではもちろんありません。

 本日、わたしたちに与えられているマルコ福音書6章1〜13節は、
大きく二つの出来事についての報告から成り立っています。
 イエス様がご自身の故郷のナザレで受け容れられず、伝道活動が空振りに終わったこと、
そしてそれに続いて十二弟子を呼び寄せて、村々へ伝道に遣わされたことです。
 イエス様の宣教活動が順調に進んで、いわば事業が発展して、支店を増やすように、
弟子たちを伝道活動に遣わして、活動を広げてゆくのではなくて、
いわばご自身の失敗を弟子たちに見せてから、弟子たちを遣わしていることは特徴的です。

 しかし、ここに福音を伝えることは、どのようなことなのかが示されています。
つまり、福音を伝えることは人々に受け容れられないことがあるということです。
そしてこのことは、福音を伝える者の責任ではなくて、聞く者の責任であることが言われています。
ですから、福音を伝えようとして、拒否や拒絶にあったとしても、
だからといって福音を伝えることを止めてしまう理由にはなりません。
むしろ一層、わたしたちは福音を伝えることに努めるべきなのです。

 福音そのものに価値があり、人々が受け容れたり、
受け容れなかったりすることによって福音の価値が決まるのではありません。
流行歌や商品は、売れればどんなつまらないものでも、立派な歌や商品です。
そして、その商品の価値は買い手によって評価されます。

 しかし福音は商品ではありません。福音は命です。
福音を受け容れて、永遠の命を受け継ぐ者となるのか、この世と共に滅びてしまうかを決定する命です。
 イエス・キリストを信じ、この方を主なる神として生きること、ここに福音のすべてがあります。
そして、わたしたちは、ここに留まり続け、これ以外のものを排除し続けなければなりません。
イエス・キリストを信じ、この方の言葉に従い続けることで十分なのです。
何か他のものを付け加える必要はありません。

 福音は商品ではないと言いました。しかし、わたしたちはこの福音を商品と勘違いしている節があります。
あるいは商品と同様のものと思っていないでしょうか?
 なぜならば、
「この人に福音を語っても無駄ではないか。」
とか、福音を人に語ることを
「語っても分かってもらえないのではないか?」
と躊躇するからです。
 無駄であるか、理解されるかは、聞き手の問題であって、わたしたちには語ることが求められているのです。

 イエス様が故郷の会堂で教えられたとき、多くの人々は驚きました。

「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。
この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。
姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」
このように、人々はイエスにつまずいた。

 イエスの故郷の人々はイエス様の福音を受け容れることが出来ませんでした。
それはイエス様の説教の内容からもわたしたちはある程度想像することができます。
 マルコによる福音書には、イエス様がどのような言葉を具体的に語られたのかは伝えられていません。
しかし、イエス様のお説教自体は色々なバリエーションはあったでしょうけれども、
色々な場所を巡って教えられたのですから、その内容は基本的に同じであったはずです。
行くところ行くところで言うことが変わっていたということは考えられません。

 マタイ福音書にはイエス様の説教の言葉が比較的まとまって伝えられています。
その言葉は次のように始まっています。

5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、
  迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、
  あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
  あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 このように語られたとしたら、イエス様を小さいときから知っている故郷の人々は驚いたでしょう。
「一体、どこからこのようなことを言う権威を得たのか?」
と彼らが言ったのは理解できます。
 神の言葉には権威があります。神の言葉そのものが権威です。
 しかし、わたしたちはその権威を認めようとしません。
何か立派な学者や知識人といわれる人々が語ったのなら、わたしたちはその権威を認めます。
イエス様も、どこかエルサレムの神学校へ行って何年も勉学を積んで帰って来たというのなら、
村人は喜んでイエス様の言うことを聞いたでしょう。歓迎会も開かれたに違いありません。

 しかし、イエス様は大工であり、
まったく普通のどちらかというと無教養だとさげすまれるような家庭の出身でした。
「さすが、あの家の子だけのことはある」
と、言われるような家庭の出身ではありませんでした。

 神の権威は、この世の人間の権威とはまったく異なるのです。
神の言葉は、大工の子であり、大工となったイエスにおいてこの世に語られました。
 しかし、わたしたちはいかにこの神の権威を無視していることでしょうか。
なぜならばわたしたちが誇ることは、神の権威に服することではなく、
この世の中での自分の地位や立場に限られているからです。
 わたしたちはいかに人の作った価値観にがんじがらめになっていることでしょうか。
そして、わたしたちはどんなにこの世の権威の奴隷に自らなっていることでしょうか。
社会的に地位の高い人が偉い人であり、経済的物質的にに豊かなことが幸福であり、
健康に長生きすることだけが人生の幸いであると思っています。
わたしたちは、自分たちの狭い考えの中にがんじがらめになっているのです。

 「真理はわたしたちを自由にする」
と聖書は言いますが、地位や名誉や富や健康が与えられなくても、
わたしたちは幸福であり、この世の地位や名誉や富や健康を失っても、
なお心の底から喜んで生きることが出来る目的があることを聖書は語っているのです。
 それはイエス・キリストを信じて、生きることです。
 ですからイエス様は弟子たちを派遣する際に、
杖一本のほか何も持たずに行くように命じられています。
この世的な権威や富に頼るのではなく、
ただおっしゃられたイエス様の言葉に従うことを命じられています。

6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。
 その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。

 現在、関東教区議長をされている三浦修先生は、鳥取で長く開拓伝道をされていました。
その中で
「神様は必ず祈りに応えて必要を満たしてくださる方だ」
ということを学ばれたそうです。
 弟子たちは、このイエス様の非常識とも思える言葉に従って、イエス様の言葉の確実さを学びました。

6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 この世のものは過ぎ去ります。
過ぎ去ることのない永遠なるものを求めてわたしたちもこの週を過ごしたいと願います。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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