
水戸中央教会 説教 2006年6月18日
「イエスの宣教」
マルコによる福音書1章29〜39節
29:すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。
ヤコブとヨハネも一緒であった。
30:シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、
人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
31:イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
32:夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、
イエスのもとに連れて来た。
33:町中の人が、戸口に集まった。
34:イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、
また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。
悪霊はイエスを知っていたからである。
35:朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
36:シモンとその仲間はイエスの後を追い、
37:見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
38:イエスは言われた。
「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。
そのためにわたしは出て来たのである。」
39:そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
イエス・キリストを信じ告白することは、
イエス様がわたしの救い主であり、主であることを信じ、告白することです。
それは同時に、わたしが主ではないことを告白することです。
イエス様がわたしの主となって、わたしの生活の中に王座をしめるようになってゆくことが、
信仰生活そのものと言っても過言ではありません。
福音書においてもこのことは一貫して流れるテーマです。
福音書はこのことを伝えるために書かれています。本日の箇所においてもそれは同様です。
イエス・キリストご自身がなさったことが報告されています。
弟子たちがなしたことではなく、
またどのようにしたらわたしたちがイエス・キリストのような力を持てるか、
ということが言われているのではありません。
弟子たちは、イエス様のなさったことの証人です。
1:29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
イエス様と弟子たちの「一行」を、具体的に責任をもった証言として伝えられるように、
ヤコブとヨハネの名が記録に留められています。
ヤコブとヨハネは、イエスの昇天後に形成される初代キリスト教会において、
特別な地位を占めた人々でしょう。権威を認められた人々であったと考えられます。
しかし、彼らの権威は、決して彼らが有能な方であったからではなく、
イエス・キリストのなさったことの証人としての権威です。
そしてそれだけで十分なのですが、わたしたちはこの権威を求めようとしません。
神の栄光を讃え賛美するのではなくて、自分が賛美され認められることを求めます。
わたしは説教者としてここに立てられていますが、この危険にもっともさらされています。
少し「いい説教者だ」といわれると思い上がり、自分に何か権威があるように思いこみます。
先々週、五浦で開催された関東教区教会婦人会連合の修養会で閉会礼拝を担当して、
ちょっとその評判が良かったとなると普段の礼拝準備がおろそかになります。
また週日に教団の会議などが入って議論に心を奪われますと、
やはり礼拝の説教準備に支障をきたします。
これもやはり、「自分が主である」という間違った思いの現れの一つであるとわたしは感じています。
要するに「わたしがあれをした、このことをした」
ということに囚われるので説教準備に用いる時間がなくなってしまうのです。
わたしたちが堅持すべきは、
「神様があのことをしてくださった。これをしてくださった」
という感謝です。
1:30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
1:31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
1:32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
1:33 町中の人が、戸口に集まった。
1:34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、
また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。
会堂でイエス様は福音について語られた直後、このいやしの奇跡は起こります。
イエス様の教えが哲学や思想とは大きな違いがあることがここに明らかにされています。
それは人間の病を癒し、悪霊を追い出し、現実世界に力を及ぼす力を持った方でした。
技術ではありませんし、権力ではありません。
イエス様の持っていらした力は、力の力、力の源でした。
人の知恵や力によるのではなくてただ神によって与えられ行使される力です。
昔話やメルヘンなどを思い起こしますと、
福音書の記録というのはずいぶんと違っていることが明らかになります。
「つるの恩返し」とか「なんとか長者」というようなお話では、
何か大変な富を生み出す不思議なものが物語の中心にあります。
鶴の織物であったり、魔法のランプであったり、不思議な壺であったりします。
この傾向は現代の映画などでも変わりはありません。
不思議ないくつかの玉を集めると世界が征服できるとか、
魔法の指輪を持つと世界を支配できるというようなお話は、
今もファンタジーとして愛好されています。
これらの昔話や映画のファンタジーは、
わたしたちの心の奥底にある思いがかたちとなって現れているだけで、なんの実体もありません。
1:31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
ここにわたしたちはイエス様の為した癒しの業が魔法や呪文の類ではなかったことが言われています。
ただ手を取って起こされると熱が去り、病気が癒されたのです。
何か特別な呪文によって癒しが行われた訳ではありません。
イエス・キリストの癒しの業を通してわたしたちは何か魔法や魔術を信じているのではありません。
そうではなくてイエス・キリストという方の力をわたしたちは信じているのです。
イエス・キリストご自身の存在と人格、イエス様を通してなされる神の御業が問題です。
けれども信仰深いということは、何かオカルト的なことを信じることだという勘違いが、
非常にしばしば起こります。わたしたちクリスチャンの間にこの勘違いは頻繁に見受けられます。
クリスチャンですらそうなのですから、世間一般では言うにおよびません。
心霊現象のようなものを経験すると、
「やっぱりこの霊的な神様の世界はある」と考えたり思ったりする方がいらっしゃいますが、
聖書が訴えている悪霊を追放されたイエス様は心霊現象ではありません。
西洋の魔術師などが活躍する映画ではラテン語がよく用いられています。
これなどは教会起源の俗説の影響と言えるかも知れません。
中世の教会の礼拝ではラテン語が用いられたという影響があり、
あたかもラテン語に力があるかのように多くのクリスチャンは考えました。
教職者もこのような誤解に惑わされやすいものです。実際、惑わされました。
信仰とはなんでしょうか? それはイエス・キリストのもとに赴くことです。
彼のもとに一歩、歩み出すことです。神のもとへ歩み出すことです。
つまり神を呼び寄せることではありません。
神の力を奪おうと何か画策したり、神と対等になろうと技術を磨くことではありません。
これらのことを魔術といいます。
魔術というと迷信的な大昔の古びた考えとわたしたちは思いますが、
この笑い飛ばすべき魔術は今もわたしたちの心の中に深く巣くっています。
立身出世も、支配欲に駆られて富を得ようとするわたしたちの浅ましい心は、
この魔術を生み出した土壌と何ら変わりありません。
ですから日本では有名占い師などという詐欺師が偉い顔をすることができるのです。
カルト教祖が大もうけをすることができるのが日本です。日本には信仰がないからです。
わたしたちは信仰というものの真の姿をこの日本に伝えなければなりません。
そして多くの空しく滅びてゆく魂を救う使命を与えられているのです。
信仰とは何かということを知らせなければなりません。
イエス・キリスト、神の子が、この世に来て下さいました。
わたしたちは、この地上にあってイエス・キリストに信仰において出会い、
信仰によってイエス様と直接お会いできる天の御国への旅を続ける者です。
それぞれが重荷負っており、苦悩を負っています。
そのそれぞれの十字架を担って天の御国を目指して歩んでいます。
この世はわたしたちが安住し、豪華な屋敷を建てて、贅沢な暮らしをするところではありません。
神様はそのようなことをわたしたちに望んでいらっしゃいません。
神様はわたしたちが永遠に生きることを望んでいらっしゃるのです。
この過ぎ去りゆく世とともにわたしたちが滅びてしまうことを神は望んでいらっしゃらないのです。
ですからわたしたちにとってこの世はわたしたちの安住の地ではなく、
この世はわたしたちが平安を得る場所ではありません。
わたしたちにとっての平安は、神と共にあることです。
神様がわたしたちとともにいて下さるという信仰においてわたしたちは平安を持っているのです。
そしてその平安は失われることなく、どんな盗人も盗むことができず、朽ちることがありません。
1:35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
1:36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、
1:37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
1:38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。
そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
1:39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
病を癒されたイエス様は、その家に留まって自分の勢力を広げようとするのではなく、
人里離れたところへ行き、神に祈られました。
そして、弟子たちとともにほかの町々へ宣教の業を広めに行きます。
主はわたしたちのところへもいらして下さいました。
わたしたちは主をお迎えして、主とともに歩む心の準備ができているでしょうか。
イエス様の声に応えて心の扉を開くことができるでしょうか。開いているでしょうか。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988