水戸中央教会 説教          2006年6月11日

「神の子とする霊」

マルコによる福音書1:9〜11 

 9:そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、
 ヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた。
10:水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、
  御覧になった。
11:すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、
  天から聞こえた。

 今日は、三位一体を記念する三位一体主日です。
 本日の聖書箇所マルコによる福音書1章9〜11節は、
イエス様が洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けたことを伝えていますが、
ここに父なる神と子なるキリスト、そして聖霊が現れています。
 8節には「聖霊」とあり、ここでは「霊」となっていますから、
何か違いがあるのだろうかと思いますが、基本的に神からの霊であって、
違いはないと考えられています。

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が父なる神の声です。
神の子イエス・キリスト、鳩のように天から降ってくる霊が聖霊です。

 旧約聖書にあるノアの大洪水の物語に鳩は登場します。
大洪水が終わり、水が退いたかどうかを確かめようとして、ノアは箱船から鳩を放ちますと、
鳩はオリーブの枝をくわえて帰ってきます。
鳩は神から与えられた大災害の終わりを告げ、新しい時代の始まりを告げるシンボルです。

 神はこの父と子と聖霊なる三つの位格を持ち、一人の方であるというのが三位一体論です。
神は三つで、一つなのだというのがおおざっぱないい方です。
 非常に理解することが難しいのですが、
この三位一体論は、わたしたちの救いに関わる非常に重要な教えで、
キリスト教の教えの根幹をなしています。
その主旨は、イエス・キリストによる神の救いは完全であり、
何かわたしたちが付け加えたり、補う必要は全くないことです。
 わたしたちの人生は完全に神の内にあり、神によって生きていることが、言われています。

 つまり、神によってわたしたちは創造され、罪を犯して神から離れていましたが、
イエス・キリストによって救われ、聖霊を与えられて、生きている。
わたしたちの人生は神から受け取り続ける人生です。
神様のために何かをなす人生ではないのだということが、
三位一体論によって言われている具体的な事柄です。
 何か善いことをなして、神から感謝されることを望むのではなくて、
神の為して下さったことへの感謝が、わたしたちの善き業です。
 イエス・キリストを信じることが出来るようになったことも神様の業であって、
わたしに特別な才能や能力があったからではないと三位一体論は言います。
 ですから、神の三位一体を思い考えるということは、
常に謙虚にそして自由にされていくことを意味します。
そして喜びに満たされていく原動力です。

 神は、わたしたちが素晴らしい人であったから救って下さり、
永遠の命を与えようとされているのではありません。
 わたしたちが自分自身の限界と惨めさを知って、神に救いを求めたから、
神は応えて下さったのです。
 イエス様ですら、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を受けられました。
罪無くして、生まれながらに神の子であった方ですら、罪を告白して洗礼を受けた後に、
霊が鳩のように降り、天から
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
という声を聞いたのです。
 この声は天からあり、そして聞いているイエス様ご自身は、
ご自身の力で聞いているのではなくて、神からの霊によって聞いているのです。

 洗礼というのは不思議な業です。罪を告白して川に入って出てくるだけです。
そして現代の教会では、頭に水を少々振りかけるだけですけれども、
 
 (滴礼という方法です。
  全身を水槽や河川等に沈めて浸す方法は、浸礼と呼ばれます。
  洗礼の方法を滴礼にするか浸礼にするかは、
  各教派、教団、教会などの方針や判断によります。補足:ウリヤ)

そう簡単に進んで受けようという方はいらっしゃいません。誰もがそれなりの決心が必要です。
何か傷が残るとか、洗礼を受けたら必ずこうしなければならないというような規則もありませんけれど、
誰もがそれなりの覚悟が必要だと受ける前には思います。
そして多くの人々が、洗礼を受けずに生涯を終わります。
このことは一体何を意味しているのでしょうか?

 洗礼という儀式が、非科学的で信ずるに当たらないという理由から、
人々は洗礼を拒絶するわけではないようです。
 科学者で洗礼を受けているクリスチャンというのは沢山いらっしゃいます。
わたしたちの兄弟姉妹の中にもいらっしゃいます。
その分野で著名な業績を上げている方も少なくありません。
 実証的な科学者ならば、自ら洗礼を受けて試してみるということがあってもおかしくありません。
でも多くの人々はそうしないのです。

 「自分が悪いのだ」と認めることは、人間にとって大変に困難なことだからです。
日常生活の中で自分の欠点を知って改めることすら大変に困難なことです。
なぜならば、それは人の思いに心を寄せることだからです。
 わたしたちは自分の思いが、自分の人生に実現することを望んでいます。
神様がいらして、神様がわたしにどのようなことを願っているのかということを考えることはありません。
大抵は、神様を頭から否定します。
そうでなければ、自分の思いや願いを叶えてくれると思うもの、
叶えてくれると言われているものを神とします。
 なんの実証も科学的根拠もないのに、神社へはお参りに行くということを多くの人々は致します。
神様を否定しているのに、神様はいるのだと神でもない人間の作った像や鏡や山を拝むのです。
 「これが日本の伝統です。」という声にごまかされてはなりません。

 先週、関東教区教会婦人会連合の修養会が茨城県五浦で開かれました。
渡辺和子さんというカトリックのシスターにお話を頂きました。
大変、ほがらかな楽しい方で、自分自身を改めて振り返る大変善い機会が機会が与えられました。
 マザー・テレサが来日されたときの通訳なども務められたということで、
マザー・テレサのお話も少ししてくださいました。その時、はっと思ったことがあります。

 ご存じのように、マザー・テレサはインドで死に行く人々の世話をなさっていました。
そしてその死んでゆく人々をそれぞれの宗教で葬儀をされているということでした。
「あなたの宗教はなんですか?」と問うて、
イスラム教の人はイスラム教で、ヒンズー教の人はヒンズー教で、
仏教の人は仏教で葬式をなさっているということは、以前からわたしも聞いて知っていたのですが、
改めて渡辺先生の口からそのことを聞いているときに、
「マザー・テレサは、クリスチャンだからそうできたのだな」
と思いました。つまり、その逆はないということです。

 わたしたち日本の牧師がもっとも労苦することの一つは、
自分の奉仕する教会員の葬儀をキリスト教式でさせていただくことです。
亡くなったということを聞いて、直ちにお宅にお伺いしても、
相当に家族や親族、町内会の人々とけんけんがくがくやり合わなければ、
その方をクリスチャンとして葬儀を出すことは難しいと言うことがしばしば起こります。
 地方では今でも顕著で、熱心なクリスチャンであったのに葬儀は結局仏教で行われてしまった、
ということはよく起こります。地方でも都会でも起こります。わたし自身も経験したことがあります。
 御遺族の意向が優先されて、記念会を教会で行うのが精一杯でしたが、
マザー・テレサなら案外、本人の意向を大切にして、
キリスト教式で行うようにとがんばったのかもしれないと思いました。
「信教の自由は憲法で保証されている。だからわたしが何を信じようが勝手でしょう。
キリスト教は信じません。わたしは仏教です。」
という方に限って、クリスチャンの信仰を踏みにじっても知らん顔をしている現実をわたしたちは見ています。

 人は生まれながら罪人です。
「わたしは法律を犯したこともないし、犯罪者でもない」
などと愚かなことを言うのは止めましょう。
 犯罪者で、法を犯して、自らの愚かさと高慢に気が付いて、神に救いを求めるならば、
神はイエス・キリストにおいて赦してくださいます。必ず、赦してくださいます。
犯した犯罪の罪は償わねばなりませんし、罰も受けなければなりません。
 しかし、その人は永遠の命を受け継ぎ、復活の恵みにあずかることが出来るのです。

 自らの罪を認めず、正しいと言い張り続ける者に神は裁きを下します。
その裁きは人の下す裁きとは較べものにならないほど恐ろしいのです。
神に助けを求めなかったからです。
 

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教