水戸中央教会 説教           2006年5月28日

「イエスの祈り」

ヨハネによる福音書17章1〜13節

 1:イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。
  「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、
  子に栄光を与えてください。
2:あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。
 そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
3:永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、
 あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
4:わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、
 地上であなたの栄光を現しました。
5:父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。
 世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
 6:世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。
  彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。
  彼らは御言葉を守りました。
7:わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、
 今、彼らは知っています。
8:なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、
 わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、
 あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
9:彼らのためにお願いします。
 世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。
 彼らはあなたのものだからです。
10:わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。
 わたしは彼らによって栄光を受けました。
11:わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。
 聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。
 わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
12:わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。
 わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
13:しかし、今、わたしはみもとに参ります。
 世にいる間に、これらのことを語るのは、
 わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

 わたしたちはイエス・キリストを信じます。
イエス・キリストがわたしたちの主であり、神であることを信じています。
そしてイエス・キリストは人となった神です。
イエス・キリストにおいて神が人となられました。
この神はわたしたちに永遠の命を与えてくださいます。

17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。
  「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、
  子に栄光を与えてください。
17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。
  そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、
  永遠の命を与えることができるのです。
17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、
  あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

 永遠の命とは、唯一まことの神とその神が遣わされたイエス・キリストを知ることであると言われています。
 永遠の命とは、わたしたちの人生の目的と言い換えることも可能でしょう。
それはわたしたちの人生の目的以上のものです。
 その人生の目的以上の大切なことは、神とイエス・キリストを知ることだと言われています。
これほどあからさまに書かれており、聖書は大量に印刷されて今や世に満ちていますが、
誰がこのことを本気で考えているでしょうか?

 神とイエス・キリストを知ることについて何の関心と注意も払われていないのがわたしたちの現状です。
日本の政治や経済の行く末について不安を持ったり、世界の平和や発展に寄与したいと活動したり、
日々、起こる事件に眉をひそめたりすることで、わたしたちの毎日は過ぎています。
 自分の能力を開発し高めることに一生懸命になったり、芸術や美術の感性を磨いたり致します。
 わたしたちは自分自身がどう生きてゆくかということを常に問題としています。
自分がどう生きるかが問題となるならば、それは、まだ大変に真面目な問題意識でありますが、
わたしたちは非常に多くの時間とエネルギーを人がどう生きているかということに費やしているありさまです。

 「あなたは何のために生きているのですか?」と、問われて、
即座に「神とイエス・キリストを知ることが私の人生の目的です。」と、答える人、
そしてその答えに心から一致している人は果たしてどれほどいるでしょうか?
「そんな人はいない」とわたしたちは断言できるのではないでしょうか?
わたしたちの心の中に神を知り、
イエス・キリストを知ろうとする思いはないとわたしたちは断言することが出来るのではないでしょうか?

 わたしは、今回、このイエス様の祈りの言葉に触れて、思ったことは、
「神とイエス・キリストを知ること」が自分の人生の目的になっていないということです。
 「いい牧師として認められたい。」とか、「いいお説教でした」と言われたいとか、
なにか著作でも著して有名になりたいとかは常々、思っています。
そして、そんな風に言われると喜びますし、ちょっとけなされたり、批判されたりしますと、
表面上は丁寧ですが、内心は大変に怒ります。
そして、自分より「いい牧師」や「すばらしいお説教」そして身近な人が本を出されたというと、
口では「すばらしいですね」とか言いますが、内心はねたみで一杯です。
 ですから、わたしにおいて、
「神とイエス・キリストを知ることは」
わたしの人生最大のもっとも重要な関心事ではないことを確認するのです。
 わたしの人生の目的は、わたしが少しでも誉め称えられることであり、
神を知り、イエス・キリストを知ることではないのです。
 わたしが人々に知られることであって、
神やイエス・キリストは、わたしの評判に仕える召使いだというとんでもない思いが、
わたしの心の奥底にはあります。

 先週の日曜日、大和田広美さんのコンサートを持ちました。
多くの人々をお誘い下さり皆様に感謝します。
 全盲で大きなハンディキャップを負った彼女の歌が、
本当にストレートにわたしたちの心をしっかりとつかみ、
福音の本質を伝えるのを皆さん自身も経験されたと思います。
 弱さの中に、主の栄光は輝いておられるとわたしは思いました。
そう思ったのは、わたしだけではないと思います。
 翌日、コンサートに来て下さった近所の方に道でお会いしたときにも、
感動がしっかりと、そのクリスチャンではない方にも伝わっていることが分かりました。

 振り返って、自分はと思いました。
わたしは自分の弱さよりも強さの中にイエス・キリストの福音を隠して来なかったかと思いました。
 わたしはドイツ語が出来るのが、ちょっとした自慢です。
実際はそんな大したことはないのですが、ちょっとした自慢どころか大変な自慢です。
 英語は中学生にも劣りますが、ほかにもいくつか分かる外国語がありますので、
かえって変な自負心というか誇りがあります。
 キリスト教関係、宗教関係の論戦では無敵だと思っています。
沢山の鎧を身につけて、自分は強いのだと思っています。
 表向きは謙遜な態度ですが、それは表面上のことであって、内側は全く別です。
だから福音の感動が伝わらないと思いました。「
 有能な牧師」で「役に立たない神の僕」が自分の姿ではないかと改めて思いました。

 このように反省ができるということは、それでもわたしとしてはかなりの進歩です。
神様の恵みによってこのような反省ができるのです。
 以前はなにも出来ないのに、人を批判していました。

 勉強や学問が無意味だというのではありません。
 大和田さんも歌と音楽の勉強には一生懸命なのですから、
わたしは中途半端な学びをより徹底していくことが必要だと思います。
 けれども、目的は
「神とイエス・キリストを知ること」
に置かれているかいないかが決定的なことです。

 コンサートの後、参加して下さった方々と話す機会が少しありました。
大和田さんのコンサートに感動したとおっしゃるので、
「どうぞ、教会にもいらして下さい。」と、言いますと、
「いえ、わたしは仏教徒ですから、結構です。
宗教は平和とか愛とか平等を教えるもので、どれも結局は同じなんですよね」
とおっしゃいました。
「そうですか、では、あなたの仏教で大和田さんのような方がいらっしゃるのですね。」というと沈黙でした。
 この方の反応は、ごくふつうの日本の人々の反応です。
 わたしもかつてはそうでした。

 わたしたちのふつうの状態では、
「神とイエス・キリストを知ること」に、何の関心も持っていないということの身近な実例です。
 「神とイエス・キリストを知ること」に人生の目的と価値を見いだすならば、
わたしたちは神によって選ばれた人々であり、永遠の命へとわたしたちは召されています。
それはわたしたちが自分は偉い人々なのだと誇ることではありません。

 またわたしたちが誉め称えられることではありません。
主はこの世にあって、人々に誉め称えられる道を歩みませんでした。
非難と怒号に包まれて、罪人として十字架に掛けられる道を自ら歩まれました。
確信をもってその道を行かれました。

 少しばかり、人が自分の陰口を言っているということを耳にすると、
わたしたちの心は穏やかではありません。誰でもそうなのです。傷つきます。
しかし、なぜ傷つき、心が穏やかでなくなるのでしょうか?
「神とイエス・キリスト」をわたしたちが知らないからです。
生きる目的の確信をわたしたちが持たないから、わたしたちは人の言葉に怒りを以て反応するのです。

 主は、わたしの経験などとは明らかに較べものにならないほどの陰口と
いわれのない批判の中を生きられました。
しかし、その批判と陰口に対して、攻撃的な怒りを表されず、十字架を担われました。
ここに神がいらっしゃいます。

 人々の陰口と批判は今も収まっていません。
最近は、ダヴィンチ・コードという映画が話題となっています。
イエス・キリストは神の子ではなく、云々という昔からあるでっち上げが世をにぎわしてます。
 イエスの祈りは、今もわたしたちの心に現実のものとしてあるのです。

17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。
  聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。
  わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。
  わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。
  世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

 人々の無理解と心ない言葉の中で、わたしたちは、時として傷つき、あるいは怒ります。
しかし、まさにその時、わたしが今置かれているそのただ中にイエス・キリストがいまして、
わたしたちを慰め、平安を与えて下さいます。

 主に向かって祈りの手を高く挙げ賛美と感謝を捧げましょう。
そのとき、わたしたちはイエス様がわたしたちに約束して下さった喜びがわたしたちの内にわき起こり、
流れ出すのを体験することが出来るのです。

 神は愛です。
我らの主に栄光が限りなくありますように。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教