大和田広美さんのコンサートが水戸中央教会にて5月21日、午後4時より開催されました。
多くの皆様のご協力によりまして大変に恵まれた時を与えられました。
みなさまのお祈りとご支援を心より感謝いたします。          
    山本隆久


水戸中央教会 説教
             2006年5月21日

「願いなさい、そうすれば与えられる」

ヨハネによる福音書16章12〜24節

 
12:言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
13:しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。
 その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、
 また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
14:その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
15:父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。
 だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。

 16:「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、
  またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
17:そこで、弟子たちのある者は互いに言った。
 「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』
 とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
18:また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。
 何を話しておられるのか分からない。」
19:イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。
 「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、
 わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
20:はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。
 あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
21:女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。
 しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
22:ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。
 しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。
 その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
23:その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。
 はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、
 父はお与えになる。
24:今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。
 願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

 

本日わたしたちに与えられた聖書の御言葉は、ヨハネ福音書16章12〜24節です。
イエス様が弟子たちに最後に語られた、いわゆる決別説教の終わりのほうの一部です。


 16:12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、
 あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、
 聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16:14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。

 「真理の霊」とは、神の霊、つまり聖霊のことです。
父なる神、子なるキリスト、そして聖霊は、この三つが一つなのだと、
キリスト教の中心的教義として有名な三位一体論は言います。
 最近では、小泉首相が「三位一体の改革」などとおっしゃっていますが、
これとは全く違うものです。
まるでスーパーの安売り三点セットみたいで、頭に来ているクリスチャンの方は少なくないと思いますが、
わたしたちも自分の知らない文化についてとんでもない思い違いをすることはありますから、
腹の立つところをぐっと堪えることにいたしましょう。せせら笑うなどもってのほかです。

 天地を創られた創造主である父なる神、
そして罪なくして十字架に架けられ復活された神の子イエス・キリストについて
考えることは比較的簡単なのですが、この聖霊となると
「何か実体がはっきりしない。一体何なのだろうか?」
と、疑問に思う方は少なくありません。

 聖霊について理解し、それが何であるかを把握し、語ることはなかなか難しいことです。
 このように感じることは単なる不信仰ということではありません。
それは聖霊の本質に関することだからです。

 なぜならば、聖霊は、わたしたちが、それが何であるかを捕らえ、理解し、
語る対象ではないからです。
 そうではなくて、聖霊が、わたしたちを捕らえ、理解させ、語らせる方なのです。

 聖霊は語ることの出来ない摩訶不思議なもの、理解を拒絶した不合理なもの、
捕らえることの出来ない実体のない幽霊のようなものではありません。
 そうではなくて、わたしたちに神の救いの御業を語らせ、神の真理を悟らせ、
永遠の命を得させて下さる方です。
 それはわたしたちの内にいらっしゃって、わたしたちに語りかけ、
わたしたちの心と精神を導かれる方です。

 パウロはコリント人への手紙Tにおいて次のように言っています。

1コリント

12:3 そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも
 「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、
 だれも「イエスは主である」と言うことができない。

 聖霊の力によって、わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰を与えられ、
告白することが出来るのです。

 丁度、何かを見ている目の神経を見たり、
臭いや味を感じる神経そのものの臭いや味を味わうことが出来ないように、
わたしたちを語らせる聖霊を語ることは出来ません。
 ですから聖霊は、目に見ることの出来ない風にたとえられます。
風が吹けば、吹いていることは感じられますが、それを見ることは出来ないからです。

 聖霊派またはペンテコステ派というキリスト教の一派があります。
聖霊の働きを重んじる教派です。
 ペンテコステ派にも色々な立場があるようですから一概には言えませんが、
総じてこの教派では異言を語ることが重んじられます。
 「異言」というのは、「異なる言葉」ということで、
祈りの中で、普通の人間には理解できない言葉で祈ることです。
 これは神への賛美が高まって人間の通常の言語の領域を越えてしまった場合に
起こってくる現象と考えられます。
 このような教派の集会に出られたことのある方は、初めは少し驚かれたのではないかと思います。
異言も確かに聖霊による業ですが、この異言が語れない者は、信仰が薄いとか言い出すとそれは問題です。

 聖霊の働きは、異言のように普通の人には意味の分からない言葉を語らせるだけではありません。
イエスの復活後、50日目に集まって祈っていた弟子たちに聖霊が臨み、
弟子たちの上に聖霊が炎のように留まり、彼らは、様々な国々の言語で、
神の福音を語り始めた出来事をペンテコステと言います。
 この出来事がペンテコステ派の名前の由来です。

 しかし、ペンテコステに語られた言葉は、異言ではありませんでした。
そうではなくて弟子たちが、それまで習ったことも、話したこともない外国語で突然、
聖霊の力によって、神の偉大な業について語ったのです。
 そして、その言葉を母国語とする外国人には彼らの語っていることの意味が理解できたのです。

 キリスト教会最初の殉教者として伝えられるステファノは、聖霊に満たされて、
人々に訳の分からない異言を語ったのではありません。
彼は、きちんとした福音の説教を人々にしました。聖書にはこうあります。

使徒言行録

7:55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、
7:58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、
 自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。
7:59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、
 「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
7:60 それから、ひざまずいて、
 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。
 ステファノはこう言って、眠りについた。

 聖霊に満たされることは、決して突然、訳の分からない言葉を語り出したり、
地面に突然倒れたりすることだけではありません。
 聖霊を信じることは、理性と知性を放棄することではありません。
 聖霊は、わたしたちに通常の人間の理性と知性を越えた悟りを与えて下さいます。
 ステファノは、天を見上げて、幻覚を見たのではありません。
その証拠は、彼の最後の言葉です。
「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」
と、彼は赦しを語っています。
 このステファノのような他者への赦しと平安を幻覚はもたらすことがありません。
幻覚がもたらすのは憎悪と不安と混乱です。

 弟子たちに与えられる聖霊について語った後、イエス様は続けておっしゃいます。

16:16 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、
 またしばらくすると、わたしを見るようになる。」

 この後、イエス様は捕らえられて十字架に架けられ、墓に葬られて、三日目に復活されます。
「しばらくすると、わたしを見なくなり、またしばらくすると、わたしを見るようになる」
とは、この十字架と復活の出来事を指していると考えられます。
 そしてまた、このイエス様の言葉は、わたしたちにも起こる信仰の出来事にも共通しています。
それは、わたしたちに聖霊がどのようにして与えられるかということです。

16:20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。
 あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
16:21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。
 しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、
 もはやその苦痛を思い出さない。

 聖霊は、悲しみと苦悩を通して与えられます。
このことは非常に多くのクリスチャンが実際に経験する真実です。
 挫折を通じて、人々は信仰の道を見出します。悲しみと苦悩と絶望の中にあるとき、
神はあなたを見捨てているのではありません。
 そうではなくて、神がまさにあなたをこの世から救い出そうとしている時です。
この世でのわたしたちの苦悩は、
わたしたちが永遠の世界に生まれ出ようとする新たな人間の誕生に他なりません。

 この世での苦悩を恐れてはなりません。悲しみに怯えてはなりません。
神はわたしたちを死の陰の谷を通して、緑の水辺に導かれるのです。
苦悩の彼方に神の栄光は輝いています。 
 聖霊は、わたしたちの魂に深く、強く働きます。聖霊は物質的あるいは霊的な力ではなくて、
わたしたちに語りかけて下さる方です。

 先週、わたしは久しぶりに、東京品川の入国管理局に、
逮捕されたインドネシアのA兄弟を訪問する機会を与えられました。
 わたしたちと交流のある大洗ベツレヘム教会のデッキー牧師がたまたま帰国されていたので、
その代理をさせていただきました。
 オーバーステイで捕らえられ強制送還されようとしているこのA兄弟は、
「これは神のご計画の内にあることだと示されました。明日、本国へ強制送還されますが、
明後日はわたしの娘の誕生日です。その誕生日に出席出来ます」
と、何か決然として自分を励ますようにおっしゃいました。
 弱気なところを見せたくないという強がりのようにも最初は思いました。
けれども、わたしに同行してくださったインドネシアのB兄弟がA兄弟を励ますのを聴きながら、
これは強がりではないと分かりました。

 日系で滞在権を持っているB兄弟は、こう語りました。
「これは神のご計画の内にある。必ず本国にあって道は開ける。神様のご計画を信じなさい。
捕まってしまったことは、悲しい出来事であるけれど、日本にいて働き続けることも大変なことだ。
日本の政府を赦しなさい。そして日本の政府のために祝福を祈りなさい。」

 みなさんは自分が法律を犯して、不法滞在で捕まったのに、
「日本政府を赦しなさい」
というのは、なんかおかしいのではないかと思われるかも知れません。
 しかし、わたしは彼らの論理が何かよく理解できる気持ちがいたしました。
そして、聖霊の働きを彼らの内に感じたのです。

 確かにオーバーステイという法律違反をA兄弟は承知で犯していましたが、
彼は、もはや日本人の働きたがらない魚の加工工場や畑で決して高いとは言えない賃金で
長時間労働を続けてきました。
 その勤務態度は、誉められこそすれ、非難されるようなものではないことをわたしは知っています。
そして、現在、日本経済は彼らのような外国人労働者なしに成り立ちません。
 そのことをA兄弟は身をもってよく知っています。
なぜなら、彼の働く会社の労働者は外国人ばかりだからです。
 それに加えてインドネシア本国の貧しさもあります。
彼の仕送りで生活している家族があります。
 基本的には変化の著しい社会に法律が追いついていない状況です。
法律はどこに正義の基準を設けていいのか模索中という状態です。

 聖霊の働きをわたしが感じたのは、
「日本政府を赦します。祝福します」
というA兄弟とB兄弟の祈りです。
 彼らにとって逮捕は不当なことであり、納得のいかないことです。
もちろん、それが仕方のないことだということも彼らには分かっています。
 けれども自分自身の過去を振り返ると、自分に正義が少しでもあるならば、人を赦し、
祝福すると言うことはいたしません。

 人間は自分の正義を探し求め、こだわり続けるものです。
彼らの祈りは、彼らの肉の人間としての思いから出ているものではありません。
 彼らの祈りは、
ローマ人への手紙12:14 「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。」
という聖書の言葉に従ってなされています。

16:22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。
 しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。
 その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。
 あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。
 そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

 わたしたちは敵を赦し、そのために祈るという愚かさに生きることが出来るでしょうか。
なかなか難しいことです。
 やはり最近、ビザも運転免許もある日系外国人クリスチャンのCさんが、事故に巻き込まれ、
車を田圃に落とされてしまい、その田圃の持ち主と損害賠償のことで困っていると相談されました。
 とりあえず田圃の持ち主のところへ事情を伺いに行きましたら、
まぁこれがヤクザまがいの人で、散々、怒鳴りつけられました。
 その怒鳴り方を聴いていて、
「この人は、相手が日本語もよく分からない外国人であることをいいことに威張り散らし、
巻き上げようということなのだ。」
とわたしは理解しました。
 その場は話を伺って、というか、罵声を浴びるだけ浴びて、どうもご迷惑かけましたと帰ってきました。

 もちろん、そのお宅を出て、車の中で、
「どうぞ、この田圃の持ち主の方に神様の恵みを祝福がありますように」
と、同行したCさんと一緒に祈りましたよ。
 しかし、後で思い出すと段々腹が立って来ました。ホントに腹が立ちました。
今でも思い出すと腹が立ってきます。「どうしてくれようか」という思いがわき上がってきます。

 クリスチャンであるということは、素晴らしいことです。
 主の御言葉は素晴らしいものです。
 本当に今も腹が立ちますけれど、いざ祈るとなれば、
もちろん一時は裁きを求める祈りと相手を打ちのめしてくださいという祈りも口をついて出ますが、
それでも相手を祝福し取りなそうという祈りをすることが出来るのです。
 ただそれは主が命じられたから、というだけの理由から、
そう祈ることがわたしにすら出来るのです。

 わたしたちの主イエス・キリストと主の御言葉はいかに力に満ちていることでしょうか?
 わたしたちは主と共に勝利者です。
「恐れてはなりません。おののいてはなりません。」
相手への怒りに支配されそうになるとき、わたしたちは祈り求めましょう。
「どうぞ、神様、彼らをお許し下さい。彼らは自分たちが何をしているかを知らないのです。」
と言うことが出来るように聖霊の恵みを祈り求めましょう。
 主はわたしたちに必ずこの言葉を言うことが出来るようにして下さり、
わたしたちを完全な喜びで満たして下さいます。
この言葉に、わたしたちの人生の勝利がかかっています。
 そして、この言葉において、
わたしたちは世界中のクリスチャンと共に手を取り合って歩んでいることを確認するのです。

わたしたちの主に栄光が限りなくありますように。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教


補足   2006.5.27

 今回の説教の例話で、その主旨は、説教の下記の部分の後半なのです。
「けれども・・・」以下です。

 
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 聖霊の働きをわたしが感じたのは、
 「日本政府を赦します。祝福します」
 というA兄弟とB兄弟の祈りです。
  彼らにとって逮捕は不当なことであり、納得のいかないことです。
 もちろん、それが仕方のないことだということも彼らには分かっています。
 けれども自分自身の過去を振り返ると、自分に正義が少しでもあるならば、人を赦し、
 祝福すると言うことはいたしません。
 **************** 


 この「けれども・・・」以下の一文は、私自身を振り返り、
また私が体験してきた人間関係の中で、自分の方に正しい言い分があると、
人を赦すということが非常に難しいのです。
 これに対して、A&B兄弟が自分たちの論理の中では正義があると思いつつも、
政府を赦し、祝福するというのは、人間の肉の思いから出ているのではないと考えたのです。

 「けれども」以下をもっと明確に強調して置くべきだったと反省しています。