
相変わらず寒い日々が続きます。
神の祝福を祈ります。 牧師 山本隆久
水戸中央教会 説教 2006年5月14日
「道に迷ったとき」
ヨハネによる福音書15章1〜11節
1:「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
2:わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。
しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
3:わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
4:わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。
ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができない。
5:わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、
わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
6:わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。
そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
7:あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、
望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
8:あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、
それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
9:父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
10:わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、
わたしの愛にとどまっていることになる。
11:これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、
あなたがたの喜びが満たされるためである。
1:「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
2:わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。
しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
「イエス・キリストにつながっている」とは、何を意味するのでしょうか?
そして、「実を結ぶ」とは、どのようなことを指しているのでしょうか?
「イエス・キリストにつながっている」とは、「イエス・キリストを信じる」ことであり、
「実を結ぶ」とは、具体的には、「赦す」ことです。
イエス・キリストは、わたしたちの罪を赦すためにこの世にいらっしゃり、十字架に架かられました。
ですから、イエス・キリストを信じる者は、赦すことへと召されています。
教会の生活において、またわたしたちの日常生活の中でも人間関係のトラブルは起こってきます。
トラブルが起こることがいけないのではありません。
そのトラブルや問題にどのように対処してゆくかが問題です。
わたしたちは、人生の諸問題やトラブルを通して、聖められ、神とのつながりがより緊密になってゆきます。
わたしたちの人生はより豊かなものへと変えられてゆきます。
イエス・キリストを信じることは、自分を手放すことです。
「赦し」においてこのことは明らかになっています。
わたしが赦すことの出来ない人、あるいは赦すことの出来ない出来事を思い浮かべて見ます。
そこで問題となっているのは、結局のところ自分自身なのです。
自分の誇りや正義感、あるいは自分の善意が誤解されたというような場合、
わたしは、その相手と敵対関係になってしまい、赦すことが出来ません。
この赦すことが出来ない自分を手放して、イエス・キリストにつながることが信仰だとわたしは、考えます。
イエス・キリストにつながっていなければ、わたしは自分の価値観から手を放すことが出来ません。
幼稚園から小学生くらいの子どもを見ていますと、よく、
「あの子はこんな悪いことをした」、
「誰々さんは、人の悪口を言いました」
と、親や教師に言いつけるということがあります。
そして、その言いつけている本人は、
それ以上の迷惑を周りにかけているというような場合がしばしばあります。
そのようなとき、わたしたちは
「人のことではなくて、自分のことに注意しなさい」
と、叱ります。
「あの子は、本当に仕方がない」なんて、わたしたちは思いますが、
ふと自分自身を振り返ると同じことをしている自分自身を見いだします。
牧師でも、誰でもこれは同じであるとわたしは思います。
わたしの連れ合いは、テレビを付け放しで、眠ってしまうことがたまにあります。
実は自分もしてしまうことがあるのですが、相手が付け放しにしているときは、
「電気代の無駄だ。なんてだらしがないんだ」
と、思います。ところが自分がしている場合は、全然、そのことに気が付きません。
パソコンが使っていなくても電源が入り放しになっていたり、
自分の方がエネルギーを無駄にしていることが多いとしても、他人がしていると、
それを悪いこととして批判します。
このようなことは、気が付くと沢山、わたしの日常生活に充ち満ちています。
正義や規則や法律、正しいことというのは、自分を振り返り、自分を正すためにあるということが、
わたしたちにはなかなか分かりません。
正義や規則や法律、正しいことを知ると、まず、それを以て人を裁くのがわたしたち人間の癖です。
そして裁くとき、自分はどんなにその法律に従っていなくても気が付きません。
自らは自由で、しかもその法に従っていると、守っていなくても思いこんでいます。
この癖と思いこみを聖書は罪と名付けています。
この罪は、先ほど一例を挙げたごく些細な日常的なことにも染み込んでいます。
その罪の影響はわたしたちの全人格的に表れている深刻なものです。
しかし、わたしたちはこの深刻さに気が付いていません。
このわたしたちを支配している罪の深刻さに気が付いたならば、
なぜイエス・キリストが十字架に掛けられて殺されなければなかったかの秘密が分かるでありましょう。
自分の罪の深刻さに気が付かないので、イエス・キリストの十字架の意味が分からないのです。
わたしは牧師として奉仕していますが、
この牧師としての立場も罪の影響を受けていることをわたしは自分の内に見ることが出来ます。
たとえば、他の牧師の欠点を見たり、批判することによって、
自分の正当性を主張しようとする心の動きがあります。
罪というのは正義という仮面を付けていますので、なかなか捕らえることが困難です。
しかし、イエス・キリストにつながっている時、信仰の力によって、
わたしたちはこの罪がかぶっている正義の仮面を引きはがすことが出来ます。
祈りによって具体的に、わたしたちの罪がかぶっている正義の仮面は引きはがされます。
祈りとは何でしょうか?
祈りとはまず、神様のいらっしゃることを認める行為です。
祈りにおいて、わたしたちは自分の願い事を並べ上げます。
しかし、その願い事には一つの前提があることをイエス様はわたしたちに教えてくださっています。
7:あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、
望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
イエス様の言葉が、わたしたちの内にあり、わたしたちがイエス様につながっていることがその前提です。
このことはつまり、イエス様がわたしたちの与えようと望むものをわたしたちが望むとき、
その願いは、どのようなものでも叶えられるということです。
「なんだ、そんなことか。神様が許されたものを望めば与えられるというだけなのか、
わたしの望みは結局叶えられないのか」
と、うそぶくことは出来ません。
神がわたしたちに与えようとしておられるものは、
わたしたちが欲しいと願っているものよりもはるかに素晴らしいものだからです。
罪の中にあるわたしたちには、この素晴らしさが分かりません。
ですから、信仰に頼るしか方法がないのです。
わたしたちは、「愛されたい」と願っています。
「愛されたい」と願っていますから、わたしたちは、時に努力をして、富や地位や名誉を得ようとします。
富や地位や名誉を得れば得るほど、人々から馬鹿にされ、尊敬されなくなるということならば、
わたしたちは決してそれらのものを求めようとしません。
「愛されたい」と思っていますから、わたしたちは正義を主張します。
他人を批判することによって、自分の正しさを主張します。
この正しさの主張は、
「自分の正当性を認めてください」つまり、「わたしを愛して下さい」という意志の表明です。
批判している人へ他人の注意を向けることによって、自分の惨めさを覆い隠そうとします。
イエス様が、わたしたちに求めなさいとおっしゃっているのは、
「愛されること」ではなくて、「愛すること」です。
「わたしたちに愛を与えて下さい。神と人を愛する愛を与えて下さい」と祈り求めることです。
この祈りは、必ず聞かれ、そして、その愛は与えられるとイエス様は約束されています。
ですから、教会の中で色々な問題が起こってくるのは、
神様がわたしたちを導いて下さっている証拠なのです。
教会は利益共同体ではありません。神様と人間との関係性だけで教会は成り立っています。
ですから人間関係がぶつかりあうことが頻繁に起こります。
わたしたちは普段、罪の中にあって、「我とそれ」の関係に生きています。
つまり、自分中心の世界です。他人を自分の目的の手段と考える世界です。
そして、この世は「我とそれ」の関係で動いています。
これに対して教会は、お互いの人格を神様の前で対等であるとする「我と汝」の関係で成り立っています。
ですから「我とそれ」でこれまで生きてきたわたしたちが突然、
教会という「我と汝」の関係へと入ってきますと、わたしたちはトラブルばかりを感じるのです。
教会の中で問題が起こるということは、解決されるべき課題があるということです。
問題の中に正しくその課題を見いだすことが出来るならば幸いなことです。
それは簡単に言ってしまえば、わたしたちが誰かと対立したとするならば、
その対立している誰かのために神の祝福を祈ることが出来るかどうかということです。
心からその対立している兄弟あるいは姉妹を赦すことが出来るかどうかに課題はあります。
こういうことを言いますと、
「自分の心に素直になると、そんなことは出来ません」、
「出来ないのにすると言うことは、偽善ではないだろうか?」
と、言う答えや質問が返ってきます。
「赦せない人を赦そうとして、神経衰弱になってしまった」
ということも聞いた事があります。
これら全ては、自分の心と感情に、この赦しの根拠を置くからです。
わたしたちの赦しの根拠は、わたしたちの心と感情にあるのではなく、信仰にあります。
赦そうとしても赦せないということは、
単に信仰よりも自分の心と感情を自分は優先しているというだけのことに過ぎません。
そして、信仰に立つとき、わたしたちの心も感情もまた癒されるのです。
神に立ち返るとき、わたしたちは全てが益となって、わたしたちに働くという事実を確認します。
全てわたしが通ってきた苦難と悲しみは意味があったと言うことをわたしは知るのです。
なぜならば、神に立ち返ることが、人間の人生の意味だからです。
この世でどんなに人の羨むような功績をあげ、幸福な人生を過ごそうが、過ごすまいが、
神に立ち返ることがなければ、その人の人生は無意味です。
この無意味さを、聖書は初めから訴え続けてきました。
この無意味さをわたしたちは堅持しなければなりません。
聖書が憎む、偶像礼拝は、この無意味さを意味あるものと偽るからです。
この世で偉い功績をあげたり、偉大なことをした者、あるいは偉大な人を神と讃えます。
このような宗教を聖書が拒絶してきたことには正当な理由があります。
ただ、わたしたちは、先に挙げた小さな子どものように、自分がこの聖書の言葉を聞いて、
改めるのではなくて、人の過ちを指摘することばかりをしてきました。
ここに偽善性があります。
この偽善性を、わたしたちは神の前に告白いたしましょう。
この偽善性を取り除いて下さるのは神様だけです。
わたしたちが自分でこの偽善性を取り除こうとすることは、困難であり、
わたしたちの出来ることでもするべきことでもありません。
神に委ねることです。
そして、神は確かにそのことをなして下さいました。
十字架と復活の業において、このことはすでに成し遂げられているのです。
自らの偽善性を神の前に、祈りの内に確かに捕らえ、神に告白し、赦しと和解を願いましょう。
そして、あの赦せない人を、「赦します」と小さな声でも構いません。
口にしてみましょう。その時、わたしたちは喜びで満たされるのです。
主なる神はあなたの誇りを、地に落ちたままにして置かれる方ではありません。
あなたのずたずたにされた誇りを必ず、以前にもまして取り戻されます。
それがイエス・キリストが復活されたと言うことなのです。
11:これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、
あなたがたの喜びが満たされるためである。
イエス・キリストの復活の確かさと喜びを皆さんもご自身の心の内に体験して下さい。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988