
今回は水戸教会での説教となりました。
水戸教会の松井先生はずいぶん御健康を回復されています。
神に感謝します。
引き続き、松井初先生と保育園を守られる白神宏子先生そして水戸教会の方々、
聖光学園付属保育園の方々のためにお祈り下さい。 テモテこと山本隆久
水戸教会 説教 2006年5月7日
「キリストの掟」
ヨハネによる福音書13章31〜35節
31:さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。
「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
32:神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、
神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
33:子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。
あなたがたはわたしを捜すだろう。
『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、
今、あなたがたにも同じことを言っておく。
34:あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35:互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、
皆が知るようになる。」
34:あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35:互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、
皆が知るようになる。」
これは、キリスト教会の教えの最も中心をなすイエス様の言葉です。
「神は愛である」とも聖書は言っています。
そしてまた、わたしたちにとってこれほど空疎に響く言葉も他にはないでしょう。
この言葉の空疎さが、キリスト教会の2000年に及ぶ歴史を支配していると言っても過言ではありません。
それは、またわたしたちの日本基督教団という小さな小さな、
世界の片隅にある100年そこそこの歴史の浅いの教会にも確かめられる事実です。
「主イエスは、わたしたちに『互いに愛し合いなさい』と命じられたけれども、
わたしたちは、この掟に従ってきたとは言えない。いや、それどころか背いてばかりいる。」
誰もが一度はこのように思ったことがあるのではないでしょうか。
「教会とは一体何なのだろうか?」という疑問も生じてきます。
しかし、これらのことは、起こらなければならないことです。
なぜならば、そこで悔い改めがなされるからです。
わたしたちの偽善の仮面がはがされ、本来の自分へと解放されるからです。
それは信仰の道程であり、プロセスです。
わたしたちの主イエス・キリストは、わたしたちに「互いに愛し合いなさい」と、命じられました。
そして今も、その戒めは変わることなく、わたしたちに命じられています。
この戒めには、前提があります。
それは、わたしたちは本来、愛し合うことが出来ないということです。
この戒めは、わたしたちが愛し合うことが出来ないという現実に基づいているのです。
ですから、主イエスはわたしたちに命じられたのです。掟として与えられたのです。
初めからわたしたちが愛し合うことが出来るならば、わざわざ命じる必要はありません。
「愛すること」は、出来ないことなのに、
出来ること、出来て当たり前のように思っているわたしたちが問題なのです。
「互いに愛し合いなさい」という言葉を聞いて、
わたしたちは「確かにそうだ。人間はみな仲良く愛し合うことが必要だ」と思います。
普通、何の疑問も抱きません。
それでいて、教会の中で色々な争いごとが起こってきますと、
「こんな争うようなところは教会ではない」
と言って去ってゆく人々がいます。キリスト教そのものから離れてしまう人々がいます。
愚かな人々です。
このような人々は、あたかも自分は正義を守っているかのように思っていますが、
自ら愛がないことを証明しています。
そして、まさにこのような愚かな人々のためにもイエス様は十字架で死なれたのです。
主は、わたしたちの内に愛がないことをよくご存じでした。
そして、その愛を与えるために主はこの世に来られました。
ですから、わたしたちにとって大切なこと、わたしたちのなすべきことは、
わたしたちの内に愛がないことを認めて、
それを主に「与えてください」と、求めることです。
「神は愛である」と、聖書は教えています。
つまり、人間は愛ではありません。にもかかわらず、
わたしたち人間は、自分に愛があると思いこんでいます。
「あの人には愛がない。」「この教会には愛がない。」という批判にわたしたちはよく出会います。
自分自身がそのような批判をしたこともあるでしょう。
このような批判は、単にそのように批判している本人に愛がないことを証明しているだけのことです。
以前、山梨の教会に伝道師として赴任したとき、教会の周りの一区画を挨拶して回ったことがあります。
あるお宅で、年輩のご婦人に、
「わたしの家は創価学会だ。キリスト教を信じると偽善者になる。出ていけ。」
と、怒鳴りつけられたことがありました。
そのときは、「ああそうですか」と、帰りましたが、
「クリスチャンは偽善者だ」という批判は大変印象に残りました。
「確かにそんなところもあるなぁ」と思います。しかし、ちょっと違うのです。
そして、そのちょっとの違いは大きいのです。
クリスチャンとは、自分の偽善性に気がつかされている人々です。
「わたしは偽善者である」と、告白出来るのがクリスチャンです。
だからといって、クリスチャンになると偽善者になるのではもちろんありません。
人はもともと偽善者であって、悪であるのに、自分が善であるかのように言い張っているのです。
ですから神を信じません。
「偽善者である」というこの世での自分の現実をわたしたちは信仰によって知らされています。
このことによって、わたしたちは自分の偽善性から解放されているのです。
背中に背負っている重荷は、降ろしてみなければ、何を背負っているのか分かりません。
背負っているのに、
「何もわたしは背負っていない。背負っているのはあなただ。
なんでそんなものを背負っているのか早く降ろしなさい。」
というのが、罪人であるわたしたちの日常です。
人の偽善性にはいち早く気がつきますが、自分の偽善性についてはその存在すら知りません。
自分の偽善性に気がつくということは、
何か自分がいつも悪い人間で「ごめんなさい」と謝ってばかりいなさいとか、
良心の呵責を感じていなさいというものではありません。
そうではなくて、山登りで、重たいリュックサックを降ろした時のような開放感をもたらし、
自由を得させます。
「愛する」ということをわたしたち人間は知りません。
わたしたち人間は「愛されたい」とばかり思っています。
「愛する」ということ、それは神様に教えていただかなければならないことです。
「愛する」ということがわたしたち人間の人生の目標になったことがあるでしょうか?
人間の歴史を振り返った時に、
この「愛する」ということがいかにないがしろにされてきたかをわたしたちは知ることが出来ます。
それは明らかですが、わたしたちは愛がないので気がつきません。
それを示してくださったのはイエス・キリストです。
わたしは、たまたま名古屋に生まれ育ちました。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という武将が生まれたところです。
日本人で、これらの武将に自分の人生の理想像を重ね合わせる人々は大勢います。
「尊敬する人は誰ですか?」という質問に「織田信長」などと答える人々は多いでしょう。
なぜ、尊敬されるのでしょうか?なぜ尊敬するのでしょうか?
考えてみたことがあるでしょうか?
彼らが愛に満ちた人々であったからという理由で、
織田信長や豊臣秀吉、徳川家康を尊敬する人はいないでしょう。
にも関わらず、わたしたちはこれらのいわゆる英雄に敬意を払うのです。
彼らはひたすら権力を求め、その頂点に立とうとしただけのことです。
そして、わたしたちもまた権力を求め、頂点にたてたらなぁという愚かな願いを持っているので、
このような人々の人生を手本としたりするではないでしょうか。
わたしたちが愛を求めないという数ある証拠の中の一つです。
富を求め、名声を求め、権力をわたしたちは求めます。
これは、、わたしたちの内側の「愛されたい」という思いから出てきます。
富を得、名声を得、権力を得れば得るほど、
人々から憎まれ、馬鹿にされ、愛されなくなるということならば、
誰がそのようなものを求めるでしょうか。
イエス・キリストは、「互いに愛し合いなさい」と教えられました。
富を得ることなく、名声を得ることなく、権力を得ることなく、この世での生涯を終えられました。
人々から憎まれ、馬鹿にされて十字架に架けられて殺されました。
悪を行ったからではありません。
善をなし病の中にある人々を癒し、絶望の中にある人々に希望を与え続け、
強盗と同じようにして死刑にされました。
彼は世を愛し、わたしたち人間を愛したがゆえに、この十字架の道を歩まれたのです。
そして、この十字架の道にこそ永遠の命と復活の光が輝いているのです。
7:13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、
その道も広々として、そこから入る者が多い。
7:14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。
それを見いだす者は少ない。」
(マタイによる福音書)
主は「愛される」ことではなく、「愛する」ことを選ばれたのです。
それは、主が確かに人となられた神であったからです。
「神は愛である」からです。
人は愛ではありません。愛は神から頂かねばなりません。
丁度、月が太陽の光を受けて輝くように、
人も神からの愛を受けなければ愛することが出来ません。
神は人を愛されたのです。そして神は人を愛して下さっているのです。
その証明がイエス・キリストです。
イエス・キリストはわたしたちの心の闇に輝く光です。
イエス・キリストの光によってわたしたちは互いに愛することが出来るのです。
ですから「互いに愛し合いなさい」というイエス様の命令は実行不可能な、
実行しようとすればするほど、実行できないというストレスが溜まるような滅入るものではありません。
わたしが愛するのではなく、
わたしの内に生きて働いておられる主イエス・キリストご自身が愛して下さるのです。
17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、
『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』
と言いなさい。」
(ルカによる福音書)
と、イエス様が別のところでおっしゃっている言葉の意味がよく分かります。
わたしたちのなすべきこととは、何でしょうか?
それはイエス・キリストを主と崇めることです。
つまり、わたしがわたしの主人ではないということです。
わたしの意見や考え、プライドや誇り、立場を尊重してくれる人を愛するのではないということです。
わたしを重んじてくれる人を愛するのならば、イエス様から命令されなくても、
わたしたちは既に行っています。
「自分を愛する者を愛したからといって、それが何になろうか、
そのようなことは異邦人でも行っている」
と主イエスが教えられたとおりです。
わたしの意見を無視し、考えを否定し、プライドや誇りを傷つけ、
立場をめちゃめちゃにしたとしても、わたしたちにとって、
それが愛することを止めてしまう理由とはなりません。
それは祈りの必要性を訴え、祈りを誘発させるものであって、
愛することを止める根拠ではありません。
もし、愛することを、そのとき放棄してしまうならば、わたしたちは、
わたしたちに起こったイエス・キリストの救いの御業を無にしてしまうことになるからです。
「どうしても愛さねばならないのですか?そんなことは無理です」
という場合もあるでしょう。この時、わたしたちは自分自身の傲慢さに気がつくのです。
しかし、非常に多くの場合、このような時、わたしたちは気がつかず、
教会の中であるいは自分の中で、ふんぞり返っています。そして相手を心の中で非難し続けます。
しかし、「愛しなさい」と、言われて「愛することの出来ない自分」を見出したとき、
わたしたちは謙虚にへりくだる時なのです。
この時、自分は神ではないことを知るのです。そして、神に赦しを求めることが出来るのです。
謙虚にへりくだり、神に赦しを求める時、主は必ず、わたしたちを赦し、
力と恵を与えて下さいます。
確かに主イエス・キリストは十字架で死んで下さったからです。
主の血は確かにわたしたちの罪のために流され、
それによってわたしたちは生きることを許されているからです。
神の前に自らの醜さと傲慢をさらけ出しましょう。主がそれを清めて下さいます。
人前ではなく、戸を閉じて、密室で神に祈りなさいとイエス様は教えて下さいました。
密室の祈りとは、このような自らの人に言うことも出来ない罪について
赦しを求める祈りでもあるのです。
そして、このような密室の祈りをわたしたちは今、いかに必要としていることでしょうか。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988