水戸中央教会 説教      2006年4月9日

「十字架への道」

マルコによる福音書11章1〜11節

 
1:一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、
 イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2:言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、
 まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
3:もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、
 『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
4:二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
5:すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばほどいてどうするのか」と言った。
6:二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
7:二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、
 イエスはそれにお乗りになった。
8:多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って道に敷いた。
9:そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ホサナ。
 主の名によって来られる方に、
   祝福があるように、
10:彼らの父ダビデの来るべき国に、
    祝福があるように。
  いと高きところにホサナ。」
11:こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、
 もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

 先週、埼玉県吉川教会の西海満希子牧師の説教を聴く機会がありました。
数年前にお連れあいの西海静雄牧師は病のため急死されました。
確かガンではなかったかと記憶します。
 夫人牧師の説教の中で、その病名を医師から告げられた後、静雄牧師は
「楽しい人生だったなぁ。感謝だ」
と、おっしゃったそうです。
 わたしも牧師という奉仕をさせていただいて、
「これは大変にいい職業を選んだ」と思います。
それは、この職業はどれだけ沢山お金を稼いだかとか、どれだけ高い地位についたかとか、
どれだけ有名になったかということとは基本的に関係のない職業だからです。
基本的に自分の利益を求めて最終的に地位や名誉を得て威張るということが目的ではない職業です。
一応、少々人助けになることも頼まれることがあります。そういう機会があります。
 これはなにも牧師だけではありません。クリスチャンすべてに当てはまることです。

 今日は棕櫚の主日です。
イエス様が、十字架に掛けられて殺されるために聖なる都エルサレムへ入られたことを記念する日曜日です。
 およそ二千年前の今日、主イエスはエルサレムへ入られ、今週の金曜日に十字架につけられ、
それから三日目の日曜日に死者の中から復活されたと伝えられています。

 神の独り子が、この世にいらしたとき、彼は王座につくのではなくて、十字架につかれました。
歴史上最大の大王として、世界中を征服するのではなくて、
当時、世界を征服していたローマ帝国とそのローマ帝国に征服されていたイスラエルの人々によって
極悪人と同じように殺されました。

 十字架は最も辱められた死刑の方法でした。この事実を語り伝えてきたのが、わたしたちのキリスト教会であり、
この事実を聞いて語り伝えようとするのがわたしたちクリスチャンです。
 日本にはキリスト教を軽んじる風潮がありますが、
このイエス・キリストの事実はそれだけで大変に重いものです。
なぜならばイエス様の生きたその姿は、わたしたちのあらゆる価値観に反するからです。
 わたしたちは人々の間で、それぞれがそれなりの形で、地位や評判や富を求めます。
ある程度、出世や富はあきらめて家庭の幸福というのを選ぶ方もいます。
しかし、すべてを捨てて、十字架につけられる道を歩む人はいません。
本当は正しいのに、不運な巡り合わせによって、やむなく殺されてしまうという人はいるでしょう。
しかし、死刑にされることを積極的な意味で自分の人生の目的とする人はいません。

 大日本帝国の特攻隊や自爆テロのように自らの死と共により多くの人を殺そうとするのではありません。
イエス・キリストは誰も殺しませんでした。それどころか死んでしまった人を生き返らせました。
 
1:一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、
 イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2:言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、
 まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
3:もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、
 『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
4:二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
5:すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばほどいてどうするのか」と言った。
6:二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
7:二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、
 イエスはそれにお乗りになった。

 イエス・キリストがエルサレムの都に入られるとき、
馬ではなく、ロバの子に乗ったと聖書に伝えられています。
これは先に読まれたゼカリヤ書の預言の言葉と合致しています。
 イエス様は弟子たちに不思議な仕方で子ロバを手に入れさせます。
弟子たちには、この時、
「ゼカリヤ書の預言に、『9:9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。』
とあるから、わたしは子ロバに乗ってゆくのだ。わたしこそイスラエルの王なのだから。」
とはイエスはおっしゃっていません。
不思議な仕方でロバを手に入れさせることによって弟子たちは、
このことを記憶にとどめることができたでしょう。
 けっして忘れることの出来ない事実となって弟子たちの記憶にこのロバの出来事は留められたのです。
そして、後にイエス様が復活されてから聖霊の力によって弟子たちはこの事実の意味を聖書の中に確かめたのです。
 ここにわたしは自分自身の生き方を振り返る大切な視点を見いだします。
自分の生き方を振り返るとき、主がなさったように、
後から分かるような生き方をしているだろうかということです。
その時は言わなくても、
後から聖書に確かに書かれていることを発見するような生き方をしているだろうかと思うのです。

 先日、ある方から
「ゴッド・ファーザーの映画で、マフィアのドンが最後に死ぬとき、
イエス・キリストを信じて罪の赦しを求めるということがあったけれども、
なぜ、あのような極悪人を赦すのか。
 またダビデはイスラエルの最高の王として讃えられているが、
彼の人生には取り返しのつかない過ちも沢山ある。それなのに神に罪を告白すれば赦されるのか。」
という質問を頂きました。
 直接、わたしに尋ねられた方は、この質問を他の方からされて、どう答えるべきか困ったということでした。
なかなか質問をされた方の納得の行く答えをすることは難しいことです。
おそらくこの方の疑問は、
「なぜ、そんな悪人を赦すのか。赦す必要などないではないか」
というものだと思われます。
 もちろん、わたしたちクリスチャンは、これに対して、「そのとおり赦されるのです」と、答えます。
なぜ、わたしたちはそう答えることができるのでしょうか。

 大きな価値観の相違がここにはあります。
丁度、わたしたちの主イエス・キリストが真の王でありながら、
エルサレムの宮殿かどこかで華々しく王位につくのではなくて、
十字架につけられて殺されるためにエルサレムに入城したように、
わたしたちの人生の目的は、何かこの世で役に立つ素晴らしいことをするのではなくて、
わたしたちの罪を告白することにあるからです。
 その意味でキリスト教は確かに宗教です。
「人間の生きる意味は、自分の罪を告白し、神に赦しを請うことだ」
という信仰の上にキリスト教は成り立っています。
 そしてこの信仰は、
「イエス・キリストを信じる信仰によって、わたしの罪は赦された」
という信仰の事実に基づいています。

 善をなすか悪をなすかは、わたしたちにとって結果であってあって目的ではありません。
結果の評価は神様のなさることです。それは人間のなすことではありません。
 しかし、罪の告白は、人間のなす事であり、神に赦しを請うことも人間のなすべきことであり、
人間しか出来ないことです。

 そして人間のなす善悪は神の目から見るならば、とるに足りないことです。
善は人々を喜ばせ、悪は苦しめるでしょう。
 しかし、永遠なる神にとって、
最高の善人がなした善よりも素晴らしいことをなしてくださるのが神様であり、
いかなる悪人の悪によって苦しめられて死んだ人々にも
その苦しみ以上の報いを与えてくださるのは神様以外にありません。
素晴らしい良いことをしたからといって神の前に自分の良い行いを誇ることは出来ません。
このことを知る人は、どんな悪を犯したからといって、
神の救いに与れないということではないことを知っています。

 イエス様は何か善いことをしようとするとき
「右の手のすることを左の手に知らせるな」
と教えてくださいました。
それはつまり神様の正しさと素晴らしさを思いなさいということと同じです。
 
 人間の法律には限界がありますから、法律に反して罪を犯した人は、その法律に従って裁かれます。
ダビデの場合もバト・シェバとの不倫について神からの罰が与えられました。
マフィアのドンもまたイエス・キリストを告白したから釈放されたという訳ではありません。

 わたしたちクリスチャンが言うところの罪の赦しとは、
生きることの尊さ、命のかけがえのなさを教えています。
 善人が持っている命も、悪人が持っている命も、その命の尊さという点では何の変わりもないのです。
そして悪人が、「この命は邪魔だ」と思って殺した命も同じように尊い命です。
なにも殺さなくても、わたしたちの日常生活の中に、
「あの人がいなければいいのに」という思いや、
「他の人でなくて、わたしを認めて欲しい」というような思いは、心の動きとしては殺人と同じものです。

 この意味において、イエス・キリストの赦しは、
わたしたちの生活と生涯を根底から問いかけています。
 誰でも「わたしは生きていて当然」と思っています。
この「わたしは生きていて当然」という思いをイエス・キリストの十字架は根底から問うているのです。

「キリスト教は、何でアル・カポネのような悪人まで赦すのか?」
というような問いをわたしたちは神に対して持ちますが、本当は問われているのはわたしたちなのです。
聖書はわたしたちを問うているのです。
「あなたは生きていることを当然だと思っているが、本当にそうなのか?」
という問いかけが聖書からわたしたちになされているのです。
 この問いかけを聞くことが聖書を読む者の姿勢です。
その問いかけに耳を傾けるとき、聖書は神の言葉となります。
そしてわたしたちの人生に生き生きとした力を与える源となります。

 聖書を問うている限り、わたしたちはこの聖書の聖書たるゆえんに気が付くことなく、
聖書は大昔の訳の分からない迷信の書です。
 あなたが隣人や社会を裁くのではなく、その裁いているあなたは一体何者なのだと聖書は問うています。
 神の子イエス・キリストが世にいらっしゃいました。今エルサレムに入城しようとするとき、
歓呼の声を以て群衆は応えます。

8:多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って道に敷いた。
9:そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ホサナ。
 主の名によって来られる方に、
   祝福があるように、
10:彼らの父ダビデの来るべき国に、
    祝福があるように。
  いと高きところにホサナ。」

 イエス・キリストは、あなたの人生への問いです。あなたがイエス・キリストを問うのではありません。
あなたがイエスに対してどのような態度を取るかが決定的だと聖書は言っているのです。

11:こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、
 もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

 エルサレムとはわたしたちの心の奥底を意味します。主は、わたしたちを救うために世に来られました。
わたしたちの心の中に入り、心の状態をご覧になりました。
そして、わたしたちの心の中に十字架と復活の出来事がなされようとしています。

 イエス・キリストを信じるとき、確かに救いの御業がわたしたちの心の中になされるのです。
神は愛であるという言葉の意味を確かにわたしたちは知るのです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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