水戸中央教会 説教           2006年4月2日

「十字架の勝利」

マルコによる福音書10章32〜45節


 32:一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。
 それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。
 イエスは再び十二人を呼び寄せて、
 自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
33:「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。
 人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。
 彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
34:異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。
 そして、人の子は三日の後に復活する。」

 35:ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。
 「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
36:イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
37:二人は言った。
 「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、
 もう一人をあなたの左に座らせてください。」
38:イエスは言われた。
 「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。
 このわたしが杯を飲み、このわたしが受ける洗礼をうけることができるか。」
39:彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。
 「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
40:しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。
 それは、定められた人々に許されるのだ。」
41:ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
42:そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。
 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と
 見なされいる人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
43:しかし、あなたがたの間では、そうではない。
 あなたがたの中で偉くなりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
44:いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
45:人の子は仕えられるためではなく仕えるために、
 また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 
 イエス様が十字架への道を決意され、その道を先頭に立って進んで行かれます。
これが死へ向かう道であり、破滅の道であることを弟子たちは知っていました。
ですから、イエス様は、弟子たちを呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを再び説明します。

「祭司長や律法学者たちに捕らえられ、死刑となる。しかし三日目に復活する」
とイエス様は教えられました。
 本当に三日目に復活するとは思っていませんでしたが、
弟子たちは、分からないながらも「イエス様は父なる神の天の国に戻られるのだ」という程度に理解したようです。
それまでにすでにイエス様がただの人ではないことを弟子たちは思い知らされていました。
その大いなる奇跡の業も何度も体験しました。
嵐さえ、イエス様の言葉に従い、わずかのパンと魚で、四千人、5千人の人々を満腹させることができる方です。
そして、死人さえイエス様の言葉によって生き返りました。
「きっと、どうにかなるのだろう」と思っていたのでしょう。

 十二弟子のうちの二人の弟子、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、
イエス様に「折り入ってお願いがあるのです」と願い出ます。
自分たち二人を、イエス様が天に昇られるとき、
その家来として父なる神様に推薦してくださいというのが、彼らの願いでした。
天国での地位を保証してくださいという訳です。

 昨日、市内の牧師の勉強会がありました。
カウンセリングの丸谷先生が講師で来て下さっているのですが、
その中で、わたしたちクリスチャンが教会をどのようなところと考えているかが大変重要なことを学びました。
教会を自己実現の場と考える人は大変な問題を教会に持ち込んでくるということです。
そうではなくて、教会は、この世へ向かって神の福音の素晴らしさを証し、
人々に知らせるところであり、
そのためにわたしたちが整えられるところであると先生はおっしゃっていました。
そのとおりだと思った次第です。

 このヤコブとヨハネも、同じ勘違いをしたのです。
天の国で一番と二番にわたしたちをしてくださいと彼らは願い出ました。
同じようにわたしたちもまた教会の中で一番となることを求めだしたら、教会は混乱します。
それはもはや教会では無くなってしまいます。
なぜなら、教会の主はイエス・キリストその方であり、
その方が褒め称えられるためにわたしたちは生きているのであり、
イエス様への感謝するためにわたしたちはここに集まっているからです。
 
 ヤコブとヨハネの二人が、他の弟子たちを出し抜こうとしたことが、
他の弟子たちの知るところとなり、争いになります。
イエス様は弟子たちを集めて教えてくださいました。

42:そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。
 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と
 見なされいる人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
43:しかし、あなたがたの間では、そうではない。
 あなたがたの中で偉くなりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
44:いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
45:人の子は仕えられるためではなく仕えるために、
 また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 教会というのは、わたしたちが権力をふるうところではありません。
わたしたちが互いに仕えあうところです。
 人知れずに草むしりや掃除をしてくださる兄弟姉妹は、
このイエス様の御言葉に忠実であろうとされているのだとわたしはいつも思います。
そして何よりも大切な奉仕は、祈りです。
 この教会も霊の本当の心の目で見るならば、沢山の人々の祈りが、
この教会を教会として存在させてきたのだとわたしは思います。

 
「天にまします、我らの父よ」
とわたしたちは今日も明日も主の祈りを祈ります。
わたしたちはこの祈りを本当に徹底して、
わたしたちの生活と心の中に実現しなければなりません。
そのように願う願いをわたしたちに与えてくださいと祈らねばなりません。
わたしたちはいつも、わたしの御名が崇められますようにとばかり、
主の祈りを祈りながらも願っているからです。

 神の権威が明らかになるようにと努める場が教会です。
それは支配ではなく、奉仕を通してなされます。
自分が人の上に立つのではなくて、僕となることによって、神の権威は明らかになります。

 本人を前にして失礼ですが、高杉さんが先週、教会の不要になったボイラー室を壊してくださいました。
冗談で「わたしが働くなんていうことは大変なことだ」と、おっしゃっていました。
ある意味本当のことだと思いました。
 この世では、もっぱら人を働かせるのが仕事で、
実際にハンマーをもってブロックの壁を壊すということはあり得ない立場の方です。

 水戸教会の白神牧師も、ポナペという小さな南太平洋の島で、教会を建てたり、
学校を建てたりという奉仕を自ら汗を流してボランティアで長くなさっていました。
 そしてすべては祈りの中でなされます。

 新しい年度に入りました。改めて祈りの大切さを確認したいと思います。
教会を改善し成長させ人々を生き生きとさせて行くものは、祈りです。
この祈りを妨害しようと悪魔は働きます。
 単なる批判や批評は、憎しみと憎悪を増大させ、わたしたちの目を神からそらし、
隣人に向けさせ悪魔の思うつぼです。
 祈ることの素晴らしさと楽しさに目覚めて行くことが大切なのです。
わたしたちは20年以上に亘って続いたいわゆる水戸中央教会の混乱を乗り越えました。
それは確かにもはやわたしたちの後ろに過ぎ去った過去になっています。
 この問題の解決に大いに努力された一人一人は、本当に気をつけなければなりません。
自分たちがこの問題に勝利したのだと思ったら、それは悪魔の罠にはまってしまいます。
ここでヤコブとヨハネが願い出た願いと同じになってしまいます。
長くこの問題に関わってきた人々は、
どうしてもこの教会を背負ってきたというような自負とプライドが生まれてしまいます。
そして高慢の罠に陥ってしまうのです。
 そして新しく教会に共に神様を賛美しようと加わる人々を支配しようとしてしまいます。
「わたしの方が古くからいるのだから、わたしの言うことを聞いてください」
という態度がでてしまうことがあります。
そうなってしまったら、
わたしたちが水戸中央教会問題と何十年に亘って取り組んできた意味が全く無くなってしまいます。

 はじめてきた人々が、
ここに昔からいたかのような懐かしさをわたしたちが作り出してゆけるように祈り求めることが大切です。
なぜならば、罪人である人間が、わたしたちの本当の父である神の元へ帰ろうとして、
わたしたちは教会の門をたたくからです。
教会には気の置けない家族のような懐かしさが無ければ教会ではありません。

 インドネシアの人々の大洗ベツレヘム教会に見習いたいと思います。
彼らは、異国の地で働く中で、ふるさとへの懐かしさを求めて、
大洗に教会を形成し、神の家族の交わりを続けています。
 教会が何かお高く止まったサロンになってしまってはお終いです。
誰がこの中で一番ではなくて、
ただ神様に感謝するためにわたしたちは今年度もこの教会に集まり続けることができればと願っています。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教