青木次郎兄というインドネシアの人々のために奉仕を長くされている方の
87歳の誕生日を在日インドネシア人教会大洗ベツレヘム教会でみんなでお祝いしました。
わたしは今回、その誕生日感謝礼拝の説教を担当しまた。
「オーパ・ジロー」というのは、
「尊敬するおじいさんのジローさん」というような意味のインドネシアの呼び方です。

大洗ベツレヘム教会 説教 
     2006年3月26日

ヨハネによる福音書13章1〜17節

 
1:さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、
  世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
2:夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
3:イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、
 神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
4:食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5:それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
6:シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、
 「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
7:イエスは答えて、
 「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
8:ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、
 「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
9:そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
10:イエスは言われた。
 「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。
 あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
11:イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。
 それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
 12:さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。
 「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13:あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
14:ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、
 あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
15:わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
16:はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
17:このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

 わたしたちは今、受難節の中にあります。
この時、わたしたちは、イエス様のこの世での苦しみを思い出し、その意味を考えます。
そして今日はわたしたちの大切な兄弟であるオーパ・ジローの誕生日をお祝いしようとしています。
 わたしは前にオーパ・ジローから小さな絵はがきをもらいました。
それは、イエス様が弟子たちの足を洗った場面の版画です。
オーパ・ジローさんの書斎の机にいつもおいてあるのと同じ版画だそうです。
わたしもその絵はがきを書斎の棚の上に飾っています。

 イエス様と12人の弟子たちが、最後の食事をしたときでした。
その中のユダはイエス様を裏切ろうとしていました。
そして自分を裏切ろうとする者がいることも、それが誰かもイエス様は全てを知っていました。
 食事の前にイエス様は、弟子たちの足を一人一人洗ったということです。
それは、奴隷のすることで、弟子たちがイエス様の足を洗うということはあっても、
その逆はありませんでした。

6:シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、
 「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
7:イエスは答えて、
 「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。

 わたしたち人間の世界には争いがあります。
家族の中にもありますし、友達同士でも争うことはあります。
国の中にもありますし、国と国とで戦争することもあります。
わたしたち人間は争ってばかりいます。教会の中にも争いはもちろん起こります。

「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」
とイエス様は言われました。
 「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが」と言われました。
夫婦でも家族でも親子でも、社会でも国家でも、争っているときは、
どちらも自分が正しいと思っています。誰がどんな風に悪いのかよく分かっています。
つまり、わたしたちは、イエス様のなさったことが分からないのです。
 誰が自分を侮辱したり、傷つけたりした人の前に跪き、
その人の奴隷のようになろうとするでしょうか?

 教会の中でも争いがあります。
わたしが奉仕している水戸中央教会は、長い間、教会の中に争いがありました。
争っている者同士が、相手の間に跪くなど考えられません。
わたし自身も牧師となってから、いくつかの教会で働く中で、争う状況になったことがあります。
 教会と言うところは、基本的に善意の人々が集まって来ます。
自分が善意でしたことが、悪く理解されたりすると大変に傷つきます。
ですから、教会の中の争いは、世の中の争いよりもひどいことさえあります。
 
「わたしは、こんなにあの人のためにしてあげたのに、あの態度は一体何なのか。」
と、わたしたちは思います。
 そんな自分に嫌なことをした、憎むべき相手の前にひざまずいて、
その人のために奴隷のように奉仕をするなんていうことは、わたしたちには理解できません。
それは分からないことです。
ですから「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが」とイエス様が言った「今」とは、
わたしたちが理解できない、分からない「今」です。

 わたしたちが、教会の中で兄弟姉妹と争い合い、ねたみ合うとき、
イエス様は、わたしたちの足を静かに洗ってくださっているのです。
 イエス様は弟子たち全ての足を洗われました。ペテロを初め、12人の弟子たち、
全て裏切ろうとしているユダの足までイエス様は奴隷のように奉仕して下さいました。
 罪なくして、十字架に架けられて苦しみを受けられました。
人々から全く不当な扱いをイエス様は受けたのに、人々を黙って赦されました。
いえ、あざける人々に向かって
「神よ、この人々を赦して下さい。彼らは何をしているか分かっていないのです。」
と、神に向かって赦しを叫んで下さいました。
 そして十字架で死んで、三日目にイエス様は墓の中から復活され、
弟子たちに現れ、天に昇られました。

 ユダの裏切りによってイエス様は捕らえられ、十字架につけられました。
しかし、ユダの裏切りは何の意味もありませんでした。
 律法学者やファリサイ派の人々は、イエスを十字架で亡き者にしようとしました。
この世から消し去ろうとしました。しかし、消し去るどころか、
ユダヤ人の世界を越えて、時代を超えて、世界中にイエス様の名がとどろくようになりました。

 敵の前にひざまずいて、奴隷のように奉仕をしたら、
わたしたちは自分のプライドが一生傷つけられるように思っています。
ですから、憎む相手に頭を下げるようなことを決してしません。
 しかし、永遠の命に生かされた者たちは、和解の業をなそうと努めます。
相手に頭を下げることも嫌だとは思いません。

14:ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、
 あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
15:わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
16:はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
17:このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

 イエス様が、最後の最後に、弟子たちに身をもって教えたのは、
弟子たち同士が、互いに愛し合うことでした。
なぜ、このことをイエス様は最後の最後まで大切なこととして教えて下さったのでしょうか。
それは、イエス様がこの世に平和をもたらすためにいらしたからです。
そして、弟子たちの間で、この後、争いが起こってくることをご存じだったからです。

 神様の愛を知らない、罪人である人間は、必ず争います。
どんな人間の集団や社会も争いのないことはありません。
 最初のエルサレム教会にも、人数がだんだんに増えてくると争いが起こりました。

6:1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語
を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめた
ちが軽んじられていたからである。
6:2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉を
ないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。
6:3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を
七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。
6:4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」

  
(使徒言行録6章1節〜4節)

 ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との間で争いが起きたこの時、
イエス様の弟子たちは、
「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」
とおっしゃったイエス様の言葉の意味を本当に理解したのです。

 彼らは、あの最後の晩餐の時、心の中で自分たちが争っていたことを思い出しました。
弟子たちの心の奥底には団結は、ありませんでした。それでもイエス様は全てをご存じで、
弟子たちの足を洗われたのです。そのお気持ちを12弟子たちは思い起こしたのです。
どんなお気持ちでイエス様があのとき、弟子たちの足を洗われたのかを弟子たちは理解したのです。
 「わたしたちの足を洗いながら、イエス様はわたしたちのために祈って下さっていた。
この愚かな裏切り者のために祈り、わたしのために命を捨てて下さった」
と弟子たちは考えたのです。

 ですから、弟子たちは、食事の具体的な分配のことではなく、
「祈りと御言葉の奉仕に専念する」と宣言したのです。
 祈りと御言葉の奉仕とは、「わたしは偉いのだ」
と威張ることではなくて、イエス様が身を低くして弟子たちの足を洗われたのと同じなのです。
 祈りと御言葉の奉仕とは、最も根本的なところで、
「わたしたちが和解できますように」、
「わたしたちが平和をつくり出すことができますように」
と、神に祈ることです。

 わたしはみなさんのこの大洗ベツレヘム教会から色々なことを教えていただいています。
みなさんの中にも、色々な争いがあるだろうと思います。日系のビザのある人とビザのない人との間には、
やっぱり色々な差別されているという思いや問題が起こってくると思います。
これらの違いは人間が、勝手に決めたことで、神様が決めたことではありません。
 悪魔は、色々な手段で、わたしたちの間に争いの種を持ち込んで、
わたしたちを神様から引き離そうとします。わたしたちは注意しましょう。
 日本人だから、インドネシア人だから、という違いで、イエス様は差別をされません。
わたしたちが一緒になることができるようにイエス様は祈って下さっています。

 オパ・ジローと一緒にわたしたちはここに、日系も日系でない人も一緒に、
日本人もインドネシア人も、そして、中国やタイやその他色々な国の人々が、
イエス様と一緒にいる教会を作り上げてゆきたいと願っています。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教