水戸中央教会 説教          2006年3月19日

「なぜキリストは十字架にかけられたのか」

マルコによる福音書8章27-33節

 
27:イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。
 その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
28:弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。
 ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
29:そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
 ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
30:するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

 31:それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、
 三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
32:しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
33:イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。
 「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 イエス様がこの世で生きられたその有様は異質なものでした。
今日に至るまで、このイエス様を越える方は出ていません。
 幾万もの数え切れない王や皇帝がこの世には現れては消えて来ましたが、
イエス・キリストその人は決して忘れられることなく、時代に流されることなく、立っています。
 本当は、イエス様が立っているのではなくて、この人間の歴史の方がイエス様によって支えられているのです。

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などが歴史上の尊敬されるべき人物として
崇められているような状態ではわたしたち心は貧しいと言わざるを得ません。
 彼らは神として永遠にその名を残そうとしました。
 織田信長は、日本における支配権を確立しようとしたとき、自分を神としたということです。
 豊臣秀吉は、神として崇められ、歴史に名を残すために、朝鮮半島への侵略を行いました。
 徳川家康は、日光の東照宮に神様として奉られています。多くの観光客が訪れますが、
もっぱらその壮麗な建築を見物に来るだけで、
徳川家康を神様として信じているなどという人はまずいないでしょう。
 徳川家康を神として崇めて、その信仰の故に日光を訪れる人がいるのでしょうか?
単なる観光が目的で人々は日光を訪れます。御利益が評判になるということもありません。

 聖書は唯一真の神はただ一人であることを教えます。
それは人が神となることはないという大原則を言っているのです。
この「人が神となることは決してない」という考えが聖書を一貫してながれています。
そして、今もわたしたちの社会にくめども尽きない知識を与え続けています。それはこれからもそうです。

 わたしたちは神となろう、神となろうと一生懸命です。
少しでも人に誉められようとか、賞賛を得ようとします。お金を蓄えるのも、
そのことによって人々の尊敬を得られ、自分の望むことができると思うからです。
しかし、神を讃えようとはしません。

 唯一真の全てを越えた永遠なる方が、ただ一度だけ、人間となりました。
神が人となって生きてくださいました。それがイエス・キリストです。
 イエス・キリストは、神の子として世に生まれました。
貧しい大工の夫婦の子として生まれたと伝えられています。
王様の宮殿や貴族として生まれた訳ではありませんでした。
父のヨセフはダビデ王の子孫ということでしたが、1000年も前の話です。ただの人でした。
 貧しい羊飼いたちにキリストが生まれたということが天使たちによって伝えられましたが、
その印は飼い葉桶に寝かされている赤ん坊ということでした。
きらびやかな衣装をまとっていた訳ではありませんでした。
ゆりかごもなくて、家畜のエサ箱をゆりかごの代用にしている有様でした。

 当時の支配者であるヘロデ王は、東の国からやって来た学者たちによってキリストの生まれたことを知ると、
生まれたばかりのキリストを殺そうとしました。
イエス様とその親であるマリヤとヨセフは逃げるしか道がありませんでした。

 イエス様がこの世で活動を始められたのは、30歳くらいと伝えられています。
 洗礼者ヨハネから洗礼を受けます。その時、聖霊が鳩のようにイエス様に降ってきて、
天から声があったと伝えられます。
「これは愛するわたしの子、わたしの心に適う者」
と言う声であったとマルコ福音書は伝えています。

 イエス様はガリラヤというイスラエルの北部地方で活動を開始されます。
首都エルサレムではありませんでした。
 何か素晴らしい学問を修めたとは伝えられていません。また武芸に秀でた方ではありませんでした。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
と言うのがイエス様の基本的なメッセージでした。
「わたしこそ、キリストである」とか「わたしこそ神の子である」とは、言いませんでした。
「ダビデの子孫である」とも言いませんでした。
 悪霊たちが、「神の子よ」「ダビデの子よ」とわめき立てたとき、
イエス様は、「黙れ、静まれ」と悪霊を叱りつけ、黙らせたということです。
 悪霊さえ、「お前は神の子だ」とも言わないのに、
わたしたち人間は、ちょっと人より抜きんでたと思うと自分で
「わたしは神様だ」
と、言い出します。この愚かしさをわたしたちは知ることができるようになりました。
 自分は神だとか、キリストだとか救世主だとか言いふらす新興宗教の教祖がいかに多いことでしょうか?
ほとんど全てのニセ宗教にはそのような教祖がいます。
本当のキリストでさえ言わなかったことを、偽物はヌケヌケと言うのです。
美術品や骨董品の世界でも同じことが言えるようですが、
「偽物は、本物よりも本物らしいようなふりをする」のです。

 神の国の福音を人々に伝えながら、イエス様は奇跡を行いました。
それは、「自分は今から奇跡を行う。その業を見よ」ということで奇跡を行ったことは伝えられていません。
 「神の聖者だ」とわめき立てる悪霊を「黙れ、この人から出てゆけ」と、命じたところ、
その悪霊がその人から本当に出ていったこと、そして、会堂での説教を終えて、
弟子のシモンの家へ帰ったとき、熱で寝ていたシモンのしゅうとめの手を取って起こされると、
その熱が去り、働くことができるようになりました。
 その夕方には町中の人々が集まり、病人や悪霊に憑かれた者をイエスのもとに連れてきます。
 「わたしは奇跡ができます。皆さん来て下さい」と、言ったことは一度もありません。
それどころかイエス様は、ご自分のなさった良い業、驚くべき奇跡を人に言わないようにと命令されています。
 しかし、イエス・キリストのなさる業を見た人々は、我も我もとイエス様のもとに集まったのです。
決して、イエス様がかき集めたのではありません。そして集まってくる人々を拒絶されませんでした。
地位のある人や、有名な人を優先したり、貧しい人を粗末にしたりということがありませんでした。
誰でもイエス様を信じて集まった人々に恵みを分け与えたのです。
「癒しの奇跡をしていただくために、いくら払いなさい」ということはありませんでした。

27:イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。
 その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
28:弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。
 ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
29:そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
 ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
30:するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

 イエス様の評判がこの地方一帯に知れ渡ってきたとき、イエス様は弟子たちに問いました。
「人々は、わたしを何者だと言っているか?」
弟子たちは、答えます。
「洗礼者ヨハネ」は、当時、最も尊敬された宗教的指導者で、
暴君ヘロデ王に対して率直に神の御心を伝えたために最終的には、牢に入れられ、首をはねられました。
そのヨハネのよみがえりという意味です。

 エリヤは、イスラエルの歴史上最高の預言者です。
世の終わりの時にはエリヤが再び神のもとから遣わされると言われていました。
預言者は神から使わされた者で、神様の御心を人々に伝える役割をする人です。
 イエスは弟子たちに「あなた方はわたしを何者だと言うのか」と同じ質問を向けます。
ペトロが答えます。
「あなたはメシアです」。
メシアとは救世主つまりキリストを意味する言葉です。
するとイエス様はペテロのみならず、そこに居合わせた弟子たち全てに、
自分のことを誰にも話さないようにと命じられます。

 この世を見ると、メシアでもないのに自分はメシアだと言い張る偽物で満ちています。
「自分だったら、メシアでもないのに、メシアなどと言ったりしない」
と言うことはできません。
なぜならば、わたしたちも同じようなことをすでに日常生活の中でしているからです。
 家柄やら学歴を誇ったり、あるいはそれに押しつぶされたりしているからです。
それはわたしたちが偽物だからそのようなことに振り回されるのです。
それで一生を台無しにしてしまう人々も珍しくありません。
わたしたちはみんな、一生を台無しにしているのです。
 神の前に、神と共に一人の人として誠実に歩む道をわたしたちは求めようとはしません。
人々の中で少しでも自分が認められることをのぞみます。
そして無視されたり、ないがしろにされたりすれば怒ります。

 ですから、イエス様はメシアであると名乗って、栄光の道、イスラエルの真の王としての道を歩むのではなくて、
十字架への道を選択されました。

31:それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、
 三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
32:しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
33:イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。
 「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 神と共に誠実に歩むことが、わたしたちの人生を価値あるものにする唯一の道です。
人々から褒めそやされていないと、わたしたちは神の栄光は、わたしを去ってしまったと思いますが、
そうではないとイエス様は身を以て生きて下さいました。
 長老、祭司長、律法学者の頂点に立ち、これを従わせることではなく、
この人々に裁かれて捨てられる道を真のメシアは歩まれました。
 人の評判に左右されることのない本当に神から遣わされたメシアであったから、
イエス様はこの道を行くことができたのです。

 本物のメシアがご自身の栄光を捨てて、十字架の道を歩まれたのに、わたしたちは何を捨てているでしょうか?
 わたしたちはそもそも何かを捨てたでしょうか?
得ようとして必死になっているから神の平安をいまだに知らないのではないでしょうか。 

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教