
1月に日本基督教団水戸教会主任の白神先生が天に召され、
後任の松井先生が体調を崩されたため、説教奉仕を水戸教会で致しました。
水戸教会に神の祝福と慰めが豊かにありますように祈ります。
水戸中央教会 牧師 山本隆久
水戸教会 説教 2006年3月12日
聖霊を汚す罪
マルコによる福音書3章20〜30節
20:イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
21:身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。
「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
22:エルサレムから下って来た律法学者たちも、
「あの男はベルゼベルに取りつかれている」と言い、
また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
23:そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。
「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
24:国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
25:家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
26:同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
27:また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、
家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
28:はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
29:しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
30:イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
本日の説教の箇所は日本基督教団の教会暦に基づくものです。
ただ、教会暦では3:20~27までなのですが、共同訳聖書を見ていましたら、
20~30節でひとまとまりになっていまして、準備段階でちょっと勘違いをしました。
それで訂正をさせていただきました。
本日の御言葉は、さてイエス様の活動が本格化してまもない頃と考えられます。
イスラエル北部のガリラヤ湖周辺で弟子たちと共に活動を始められたイエス様は、
権威に満ちた御言葉と癒しの力によってすぐに評判となり噂が地域一帯に広がりました。
しかし、安息日に空腹の弟子たちが歩きながら麦の穂を摘んで食べたり、
安息日に手の萎えた人をいやしたりということが問題となりました。
安息日の決まりを守るということは、今もユダヤ教では大切にされています。
わたしたちの目には大した問題
には思えませんが、当時の社会では決定的な大問題でした。
神に栄光をお返しし感謝をするために安息日はあります。
その安息日を守るためにイスラエルの人々は生きていると言っても過言ではありません。
神の民イスラエルは神の栄光のためにあるのです。
この安息日のために定められた決まりを破ったあるいは軽視したということは、
「あのイエスという男は、神の栄光のためではなくて自分の栄光のために生きているとんでもない男だ」
ということになったわけです。
20:イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
21:身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。
「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
22:エルサレムから下って来た律法学者たちも、
「あの男はベルゼベルに取りつかれている」と言い、
また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
23:そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。
「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
興味本位の群衆は依然として集まってきますが、同時に悪い風評も立ちました。
それで身内の者たちが取り押さえに来ます。
イエス様の活動は既に中央のエルサレムまでも届いており、
律法学者たちが「イエスという男は一体どんな男なのだろう。
本当に神から遣わされた正しい人であろうか」と、いうことで調べに来た訳です。
そしてイエスが安息日の決まりを軽視することが分かったために、
「イエスという男は神からの者ではなく、悪霊からの者だ」
という判断をしたのです。
今はライブドア問題で世間は持ちきりです。
堀江社長は、2年ほど前のプロ野球参入のことで彗星のように現れ、
フジテレビ株の買収などや派手な言動でマスコミの寵児となりました。
ホリエモンブームでわたしたちは盛り上がっていました。
わたしの妻の英美子先生は、フジテレビの事件の頃から、
「業務提携だと最初は言っていたのに、金をもらうとすぐにおとなしくなるなんて、
この人おかしい。金目当ての恐喝だよ」
と、言っていました。わたしは、企業のことはよく分かりませんので
「そうなんかいな?」とぼけっとしていまして、
内心は「そんな悪い人ではないんじゃないか。フジテレビは、頭が固い」と思っていました。
ホリエモンブームでわっしょいをしていた群衆の一人でした。
今になってみますと、英美子先生というのは「そう馬鹿ではない」と驚いています。
堀江社長には世間も自民党も経済界もコロッと騙されました。
そしてきゃーきゃー騒いだり持ち上げたりしました。誰も別に疑っていませんでした。
「しかし」、というのか「だから」と言うべきなのでしょうか。
本物の神の子、イエス・キリストが現れると、これを疑う声が出てくる。
そして、その疑いの方が強くなって、イエス様は十字架に架けられて殺されてしまいます。
嘘と本当を見分けるのはつくづく難しいと思います。
イエス様は、疑う人々を呼び寄せて語られます。
23:そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。
「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
この「彼らを呼び寄せて」イエス様が語られた姿に、わたしははっとしました。
「いつでも、どこでもやっかんだり、ねたんだりする人はいる。放っておけ」とは、
イエス様は考えられなかった訳です。
「ベルゼブル論争」なんて言う小見出しが新共同訳聖書にはついていますから、
激しい調子で相手を論破したようなイメージを持ちがちですが、
優しく、誠意をもって諭されたのではないかとわたしには思えました。
24:国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
25:家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
26:同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
27:また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、
家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
イエス様は、自分を信じようとせず、あらがう者たちにも、正面から向き合って下さる方です。
丁度、たまたま復活したイエス様が弟子たちのところに現れたとき、
12弟子の一人のトマスは、たまたま居合わせませんでしたが、
主は特別に、トマスのために現れて、
「信じない者ではなくて、信じて救われる者になりなさい」
と諭されました。
わたしたちの主イエス・キリストは、わたしたちが分からなければ、教えてくださる方です。
主に尋ねる。主に祈り求めることが大切なのだと、この箇所からわたしは改めて思わされました。
隣人が自分に対して誤解や思い違いをしているということを知りながら、
放置していることがないでしょうか。
受難節の時は、イエス・キリストの受難を覚える時です。
放置されている人間関係の修復を試みることもこの時期にはふさわしいことです。
24:国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
25:家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
26:同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
この言葉は水戸中央教会にとって大きな戒めの言葉となっています。
なぜなら水戸中央教会はずっと内輪もめで苦しんできたからです。
教会が内輪で争えば、その教会は成り立たないと言うことを身をもって体験いたしました。
この問題では白神先生にも大変にお世話になりました。
感謝の言葉を伝えるようにと水戸中央教会の幹事の方々からもお願いされています。
ありがとうございました。
27:また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、
家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
水戸中央教会が混乱の中で学んだことは、教会を守っているのは、
牧師でも教会役員でも教会員でもなく、イエス・キリストその方であるということです。
祈りにこそ解決があります。一人で祈っているばかりでなく、
共に心を合わせて祈ると言うことが大切です。
水戸中央教会問題は議論に明け暮れている間は、一向に解決の兆しが見えませんでした。
批判は批判を、議論は議論を呼び、互いに傷つけ合い、対立は一層深まってゆきました。
わたしたちの主張する正義は物事を解決しないのです。
主イエス・キリストだけが聖なる正しい方です。
教会とは「主イエス・キリストは正しい方だ」という賛美がなされるところです。
その賛美は、「わたしは間違っていた。」ということを認め、告白することによってなされます。
「二人三人の者が、わたしの名によって集まるところに、わたしも必ず共にいる」
と主イエス様はおっしゃいました。わたしたちキリスト教会はこの言葉を信じて集まり続けているのです。
わたしたち人間の人間的な素晴らしさが賛美されるようになれば、
教会は悪魔の前に武装解除をしてしまったも同然です。
祈りこそがわたしたちの武器であり、祈る時、わたしたちは戦っているのです。
いえ、わたしたちではありません。わたしたちが祈るとき、主ご自身が戦ってくださるのです。
そして主が戦ってくださらなければ、わたしたちに勝ち目はありません。
日本基督教団の諸教会は総じて、社会的地位の高い人々が多いですから、
わたしたちはどうしても人間的な価値観が教会を支配しがちです。
そして争いが起こりやすいのです。悪魔に隙を与えないように祈らなければなりません。
マルコ福音書はイエス様が一人で祈っていらしたことを何度も伝えています。
それがマルコ福音書の特徴の一つです。
わたしたち一人一人が神の前に謙遜になることの大切さに思いを寄せたいと願います。
密室の祈りも大切にされなければなりません。
神の前のただの哀れな罪人であることを発見し悟ることがクリスチャンの人生の目的です。
28:はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
29:しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
さて、この部分は非常に厳しい感じがします。
「聖霊」ということもなかなか理解が難しいです。
具体的なわたしたちの日常生活の場で、聖霊とは祈りを意味します。
祈りを見くびってはなりません。
「祈りを馬鹿にする者は永遠に赦されず、罪の責めを負う」
と言われているのです。
弟子たちでは悪霊を追い出せませんでしたが、
主はその霊を追い出したときのことがマルコ9章に伝えられています。
9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、
「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。
祈りによってわたしたちはあらゆる困難を乗り越えてゆきます。
そして祈りによって、困難を乗り越えてきたと告白し、
感謝と賛美を神に捧げるのがわたしたちクリスチャンです。
天にまします我らの父よ 願わくば御名を崇めさせ給え。
わたしの名前、あるいはわたしたちの名が讃えられるのではなくて、
神の御名をわたしが崇め讃えることを願い求めるのがわたしたちです。
御国を来たらせ給え
御心の天になるごとく地にもなさせ給え
わたしの意志が貫き通されるのではなくて、神の御心がわたしたちを支配するのです。
イエスの身内の者たちもエルサレムからのファリサイ派の人々もイエスのことを噂で聞いて、
あるいは裁きの目でだけイエスを見ました。
彼らはイエスのことを分からせてくださいと神に祈ることはなかったのです。
祈りにおいて、クリスチャン生活の第一歩は始まり、そしてそれが全てなのです。
日本はお茶のように型から入る傾向が文化的にあり、うわべを繕うことが発達しています。
惑わされてはなりません。そのような型を重視する文化でもやはり、心が大切だと教えています。
これは普遍の真理なのです。
うわべではなくて実質、それは祈りです。
わたしの移ろいやすい心ではなくて、神の愛によって生きることを祈りは可能にするのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988