水戸中央教会 説教        2006年3月5日

「なぜわたしだけ苦労するのか」

マルコによる福音書1章12〜15節

 
12:それから、”霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
13:イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。
 その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。 

 14:ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 「なぜわたしだけ苦労するのか?」という思いは、皆さんも必ず一度は持った経験があると思います。
今もそう思っている方もいらっしゃるでしょう。
おそらく持っていない人の方が少ないとわたしは思います。
 そう考えてしまうと、この「わたしだけ」というのはすでに間違った考えであることが分かります。
「わたしだけ」が苦労しているのではなくて他にもいるからです。
 だからといって、納得するかというと納得できるものではないでしょう。

 「あなたは、『わたしだけ、わたしだけ』というけれど、世の中の人はみんな苦労しているんですよ。
よく考えてご覧なさい。貧しい国々で、子供たちがどんな風に暮らしているか。
戦火の中を逃げ回っている人たちもたくさんいますよ。
あなたはどんなに恵まれているかを考えてみなさい。」

 全くの正論です。こんな風に説教されれば、わたしたちはぐうの音もでません。
しかし、同時に、わたしたちはこのように説教する人に
「この人にはわたしの気持ちなんか分からない」
と思うかもしれません。

 「洗礼を受けてクリスチャンになれば、神の子となり、
神様から祝福を受けるというので洗礼を受けて、クリスチャンになりましたが、
やっぱりわたしだけ苦労ばっかりで何にも変わりません。」
という方もいらっしゃるでしょう。
 クリスチャンになったら、この世の問題は全て解決して、
何でもすることは全てうまく行っている人もいるでしょうけれど、
普通はそういうことはまずありません。
 クリスチャンになって生きていくということは、
あんまりこの世の中の成功物語とは関係のないことがほとんどです。
むしろ逆に苦難が増してくるということも珍しくありません。
それは、わたしたちが不信仰だからではありません。

 わたしたちの主イエス・キリストは、サクセスストーリーを歩んだ方ではありませんでした。
 先週より受難節に入りました。この期間は、わたしたちは特にイエス様の苦難を覚える大切な時です。
 マルコによる福音書によりますと、イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、
天から「あなたはわたしの愛する息子である」という声を聞きます。
しかし、その後直ちに荒野へ送られて、40日に亘ってサタンから誘惑を受けます。

 他の福音書によれば、40日間全く飲まず食わずで断食をしたと伝えられています。
 普通の人間は水を飲めば、何も食べなくても40日くらいは何とかなるかも知れませんが、
それでも大変です。水なしとなるとせいぜい1週間くらいしか生きられないのではないでしょうか。
まさに超人的です。

 その後、イエス様はこの世での伝道活動を実際に始められました。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
というのが、イエス様のメッセージでした。
 ここで注意したいのは、イエス様は
「わたしは神の子だ。この世の救世主だ。わたしを信じなさい」
とは、おっしゃらなかったことです。
 主イエス様は確かに神の子ですが、仕えられるためではなく、
仕えるためにこの世にいらっしゃいました。

 マタイ福音書20章には次のようにあります。
20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、
 偉い人たちが権力を振るっている。
20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。
 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、
 また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

 「なぜわたしだけこんなに苦労しなければならないのか」と思う状況に置かれたとき、
「なぜわたしだけ」という思いは、その苦難の意味が分からないために不平、不満となります。
 わたしだけ見捨てられたようにわたしたちは感じているのです。
ですから、「世界にはもっと苦労している人や不幸な人がいる」と諭されても、
それは見捨てられた人がたくさんいるというだけの話で、
自分が今、見捨てられているという事実を強化するだけの話です。

 しかし、聖書の証しする神、イエス・キリストの父なる真の唯一の神は、
わたしたち労苦する者を見捨てない神様です。
 わたしたちが今、労苦と困難の中にあるのは、神が見捨てられたのではありません。
なぜならば神ご自身が人間の労苦を担い、苦難の中へやって来て生きて下さったからです。

 「なんでこんな目に遭わなければならないのか」という時は、
わたしたちが主イエス・キリストの十字架を見上げるのにふさわしい時です。
そして十字架を思うことができるかできないかが、信仰の分かれ道です。
そして十字架を思うことが、その時できるならば、その苦難は必ず乗り越えられます。
その苦難と共に生きてゆくことは意味あることです。

「時は満ち、神の国は近づいた」
というイエス様の言葉のとおりに、
わたしたちの時が満ち、神の国がわたしに近づいているのです。神に立ち返る時です。

 わたしたちは自分さえよければ、神などどうでもいいと思っています。
苦難がなければ神のことなど考えもしません。
 しかし、人間の生きる意味は神の栄光を褒め称えることにあります。
神の言葉に思いを巡らし、その言葉によって生きることこそが意味あることです。

 先週、石岡教会の舟生康雄牧師の講演をわたしたちは聴きました。
 統合失調症という病と共に先生ご夫妻がどのように生きてきたかを伺いました。
素晴らしい講演であり、証で皆さんも感動されたと思います。
 舟生先生が、講演の最初と最後に、
「ただ食べるものと、着るものがあればそれで十分である」
という聖書の言葉を引用されて、
「これがわたしをずっと支えてきた聖書の言葉です」
と、おっしゃっていました。
ずいぶん大変な中を生きてこられたということが伝わってくると同時に、
その言葉を自分に言い聞かせながら精神の安定を得てきた先生の思いを知ることができました。
そして事実、舟生先生は、聖書の言葉によって自らに襲いかかってくる困難を生き抜いていらっしゃいます。

 わたしたちは、それぞれどのような聖書の言葉を心のよりどころとしているでしょうか。
聖書の言葉をよりどころにして、わたしたちは、それぞれの人生を形作って行かなければなりません。
もし、一つもそのような言葉が思い浮かばないというならば、それは探さねばなりません。

 イザヤ書には
「草は枯れ、花はしぼむ、しかしわたしたちの神の言葉は永遠に変わることはない」
と、あります。
 イエス様は荒野でサタンに誘惑されたとき、やはり聖書の言葉をもって、
悪魔の誘惑に打ち勝ちました。
 困難や苦難に遭遇するとき、それを乗り越える力を与えて、
わたしたちを生かすのは聖書の言葉です。
 そして、神の言葉によってそれを乗り越えようとしなければ、困難や苦難の意味がありません。

 わたしたちの命は神によって創造されました。
同じようにわたしたちの人生もまた神の言葉によって突き動かされなければ真実の人生とはならないのです。

 イエス・キリストの受難、十字架の苦しみを覚える受難節に入りました。
主の苦しみを覚えて断食や物絶ちなどが伝統的には行われたりしますが、
それ以前に神の言葉である聖書の言葉をわたしたちは心の中に蓄えなければ何の意味もありません。

 よく「人生に夢を持ちなさいとか、理想を持ちなさい」というアドバイスが若い人に成されます。
けれどもそれが単に自分の思いから出ただけのものであったならば、
たとえ実現したとしても、それははかない夢、空しい理想です。
 神の言葉はわたしたちに夢と理想を与えて下さいます。
そして、その夢と理想の実現へ向かって、わたしたちを押し出して下さいます。
年老いて、後は死ぬばかりと思っている人々にも素晴らしい夢と理想を与え、
生きる勇気と生きてきたことへの感謝を神の言葉はわたしたちに与えて下さいます。

[ヨエル書3章1節]

 
その後
 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
 あなたたちの息子や娘は預言し
 老人は夢を見、若者は幻を見る。

[イザヤ書]

40:29 疲れた者に力を与え
   勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
40:30 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
40:31 主に望みをおく人は新たな力を得
   鷲のように翼を張って上る。
   走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

 わたしたちの主に望みを置き、主の御言葉にすがりつつこの受難節を過ごしたいと願います。
そしてこのヨエル書とイザヤ書の御言葉が皆さん間に確かに成就しますように祈ります。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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