
水戸中央教会 説教 2006年2月26日
「なぜ落ち込んでいるのか」
マルコによる福音書4章35〜41節
35:その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに
言われた。
36:そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。
ほかの舟も一緒であった。
37:激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
38:しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、
「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
39:イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。
すると、風はやみ、すっかり凪になった。
40:イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
41:弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。
風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
週報にもご案内いたしましたが、今週の水曜日、3月1日が、灰の水曜日です。
イエス・キリストが十字架につけられて殺された苦しみを覚える受難節が、
この灰の水曜日から始まります。
これはイエス・キリストの復活を記念する復活祭、イースターから逆算して決められます。
今年のイースターは4月16日です。そして、その一週間前から受難週が始まり、
その受難週の40日前が灰の水曜日です。
受難を覚える時で、この40日間は古来、断食をしたりする風習がキリスト教会にはあります。
この苦難の時が、復活のとき、喜びの時が基準となって設定されているのは意味深いことです。
わたしたちの苦難と屈辱は、喜びと栄光が前提とされています。
イエス・キリストの十字架への道は、この世の目で見るならば、苦しみと屈辱の道、愚かな道です。
しかし、それは神様の栄光へと続く道でした。
わたしたちは「イエス・キリストを信じる、信じる」と言いますが、
なかなか自分自身の日常を振り返ると、信じていないのです。
何か悪いことをしたり、失敗したり、人を傷つけたということに気が付いた時、
わたしたちは「信仰の難しさ」を口にしたりします。
あるいは、「信じていない」と、自らの不信仰を口にすることによって、
自分の正当性を主張したりします。
しかし、わたしたちはなかなか、「信じる」と言いながら
「信じていない」という自分自身の現実に気が付くことがありません。
イエスの弟子たちは、何度も彼らの不信仰をイエス様から指摘されますが、
同じ不信仰の過ちを繰り返します。それは実に、わたしたちの姿そのものです。
「弟子たちは、なんでイエス様の素晴らしさが分からなかったのだろう」とか、
「わたしならば、弟子たちよりもイエス様を信じた」などと心にわたしたちは思ったりしますが、
それは、まさにわたしたちがまるっきりイエス・キリストなど信じていないからです。
この不信仰な弟子たちは、わたしたちの姿です。
そして、このような不信仰なことが日常のわたしたちの生活に頻繁に起こっていることに気が付くなら、
それは幸いなことです。
その日の夕闇が迫った頃、主は弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」とおっしゃいました。
イエスの御言葉を聞こうと集まってきた群衆を残して、
イエス様と弟子たちは舟で向こう岸へ渡ろうとします。
突然、湖の真ん中で突風に見舞われ、舟は沈みそうになり、弟子たちは、
舟の後ろで寝ていたイエスに助けを求めます。イエスは起きあがり、
風と湖に「黙れ、静まれ」というと、風は止みました。
イエスは、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と、弟子たちに言います。
弟子たちは、このイエスの力に呆然として、「この方は一体、どんな方なのか」と恐れを抱きます。
この聖書の言葉は大変に象徴的で出来事で印象深いものです。
主が弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と命じられました。
わたしたちも、イエス様の言葉によって神の国へと船出致しました。
海は、この世の現実、舟は教会を表すと言われます。
突如として襲う嵐は、わたしたちがこの世で出会う苦難を表しています。
苦難の中でわたしたちは弟子たちと同じように神様に助けを求めます。
イエス様は、ご自身の言葉によってわたしたちの苦難を根こそぎ取り去ってくださいます。
この出来事は、わたしたちに信仰とは何かということをよく教えています。
わたしたちが出会う苦難は、イエス様と共にいるとき、恐れるに足りないことを語っています。
「苦難に出会い、イエス様に助けを求め祈ったけれど、なんにも答えられなかった」
ということはよくあります。
「そして、すべては答えられないままに終わってしまった。信仰なんて意味がない」
ということもあります。
このことはイエス様の十字架の死と復活によって、神様は答えて下さっています。
イエス様が十字架につけられて死んでしまっても、
神様は復活させて、イエス様を天の御国に挙げられたというのが、わたしたちの信仰だからです。
わたしたちはこのような信じられないことを信じているのです。
つまり、「あなたの苦しみはこの世にいる限り変わらない」ということなのです。
クリスチャンの方で
「わたしはあの奇跡が信じられるが、この奇跡は信じられない」
とか
「イエス・キリストが神の子で、マリアは処女でイエスを産んだなんてあるわけがないじゃないか」
とか
「創世記の天地創造や、エデンの園に最初の人間が神によって創られたなんて信じられない。科学に反する」
という疑問を投げかけられることがあります。
わたしは牧師という職業柄、よく質問されます。
そして、「牧師さんは、これらの信じられないことを信じていらっしゃるのですか?」とか、
「どうしたら信じられるようになるのでしょう」と言われます。なかなか難しいんです。
この質問に答えることが難しいのではなくて、この質問をした人の裁きを免れることが難しいのです。
「いやぁ、本当のところ、わたしもよく分からないのです。」
なんて言いますと、「牧師のくせになんだ」と言うことがよくありますし、
「いえ、わたしは本当に聖書の言葉通り、そのまま信じています。」というと、
「あなたの信仰は教条的で、信仰の『し』の字も知らない原理主義者だ。
あなたみたいな人がいるから『宗教は阿片だ』なんて言われるのだ」とまた怒られます。
わたしたちが信じていることは、
「わたしはこの世にあって死を免れることはできない」
ということです。
わたしたちの信仰は、奇跡が信じられるとか信じられないとか、
天地創造が7日で成されたとか成されなかったということを信じることができる、
あるいはできないということで量られるものではありません。そんなものは枝葉です。
「わたしはこの世にあって死を免れることはできない」というのが、わたしたちの信仰だと言うと、
「そんなことは、分かっている。それは現実であって信仰でもなんでもない」と、おっしゃるでしょう。
そうです。確かに現実です。しかし、わたしたちは、この現実を信じていないのです。
いつまでも生きるつもりでわたしたちはいるじゃないですか。
そして、免れることができないのに、死を逃れようと必死に努力して、走り回っているじゃないですか。
苦しみから逃れられると思って神様をわたしたちは信じようとしているではないですか。
人から不当な扱いを受ければ、怒り狂うではないですか。
わたしたちは、自分の正義を主張するのではないでしょうか。
永遠に生きられると思って、イエス・キリストを信じているのではないでしょうか。
確かにそうです。主は信じる者に永遠の命を確かに下さいます。
しかし、そのためには死ななければなりません。自殺ではもちろんありません。
自殺は、いわば病のような者であって、信仰から来るものではありません。
永遠の神の国に入るためには、わたしたちは苦しまなければなりません。
永遠の御国に入るのは、大変なことなのです。
そして、その苦しみをイエス様はわたしたちに代わって苦しんでくださったのです。
わたしたちが、
「この世にあって生きる限り、わたしの人生は苦悩であり、わたしは死を免れることはできない。
わたしは死ぬんだ」
ということを信じるということは何を意味しているのでしょうか?
このことを信じるとき、わたしたちはわたしたちの人生が意味あるものであることを知るのです。
わたしたちは自分人生を意味あるものにしようと、
一生懸命になって何か立派なことや業績を求めたり富を求めたりします。
しかし、それは、わたしの人生は、そのままでは意味がないと信じているからです。
なぜエジプト王ファラオはあんな巨大なピラミッドを造ったのでしょうか。
世界最大の墓は仁徳天皇陵であるということですが、あのように巨大な古墳がなぜ創られたのでしょうか。
彼らは自分が死ぬということが信じられなかったからです。
彼らは黄泉の国で永遠に生きるという妄想を信じたのです。
わたしたちの信じる死が現実であるように、永遠の命もまた確かな現実なのです。
神様に祈って、病が癒された。また苦難から解放されたということはもちろんあります。
それは、わたしたちが不信仰なため、神様がわたしたちに信仰を与えようとされてなさって下さることです。
「なぜ恐れるのか。まだ信じないのか」と、その時、イエス様はおっしゃっているのです。
ですから、祈って病が癒されたと言って、「わたしは信仰がある」と誇ることはできません。
祈って病が癒されなかったといって、「あの人には信仰がない」などと言うことはできません。
わたしたちには、イエス・キリストによって永遠の命が与えられています。
この約束は確かです。
永遠の命を信じているということは、
わたしたちは自分自身の死を受け入れることができるということです。
この時、わたしたちがあのとき、泣き悲しみ、苦しみ、悲嘆にくれたことは、
無意味なことではなく、意味あることであり、
神様がわたしたちと共に確かにいて下さったという証明となるのです。
主は、このことの真実を、わたしたちに理解させるために、弟子たちの前で、嵐を鎮められたのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988