
水戸中央教会 説教 2005年2月5日
「信仰の大切さ」
マルコによる福音書4章10〜12
10:イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちがたとえについて尋ねた。
11:そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、
外の人々には、すべてがたとえで示される。
12:それは、
『彼らが見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち帰って赦されることがない』
ようになるためである。
マルコによる福音書4章21〜34節
21:また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。
燭台の上に置くためではないか。
22:隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
23:聞く耳のある者は聞きなさい。
24:また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。
あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
25:持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
26:また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
27:夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
28:土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
29:実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
30:更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
31:それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
32:蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどに大きな枝を張る。」
33:イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
34:たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
4:10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
4:12 それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』
/ようになるためである。」
このイエス様の言葉にどこか冷たいような感じを持つのは、わたしだけではないと思います。
「イエス・キリストは、全ての人を救うために世に来たというのに、
なぜ、神の国の秘密を打ち明けられない人々がいるのだろうか?」
と思います。なぜ、イエス様に従う人々だけに神の国の真実が伝えられて、外にいる人々には伝えられないのか?
しかも、その外の人々が理解できないように、そして悔い改めることができないように語られるたとえというのは、
一体何なのかと疑問に思います。
たとえは普通、分かりにくいことを分かり易くするために用います。
分からないようにするために用いるたとえというのは少々特別で、なにか陰険な感じさえします。
しかし、このことは、神様の心が狭いのでも、イエス様が自分の気に入った人々だけに親切にしたということではありません。
ここにはまず重要な二つのことが語られています。
一つはイエス様を信じ従うことが、神の国の秘密をしる唯一の道であることです。
ヨハネ福音書14:6 には
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
というイエス様の御言葉があります。
第二はイエス様に従うことには、何の制限もなかったということです。
誰でもイエス様に従おうと思えば従えたのです。
どこどこの学校を出ていなければならないとか、入会金を支払わねばならないとかいうことはありませんでした。
イエス様の一番弟子とも言えるペテロは漁師で、なにか特別の教育を受けたとは考えられない階層の出身でした。
はっきり言ってしまえば、何も教育を受けていないと言えます。
また弟子たちは全てを捨ててイエス様に従っていったと聖書には記録されています。
お布施を積んで、位の高い戒名を買うというようなことは、全くありませんでした。
ここで、たとえについて尋ねたのはイエスの十二弟子だけではなく、
「十二弟子と一緒にイエスの周りにいた人たち」でした。
イエスの周りにいるのは誰でも、本人さえその意思があればいることができたのです。
ですから、神の国の秘密が知らされない「外の人々」は、自らの意志で、イエスに従わないことを決めた人々です。
イエス様のどんなに素晴らしい業を見ても、すばらしい説教を聞いても心動かされなかった人々です。
彼らは自分たちには理解できないことが語られてもイエス様に質問しようとさえしませんでした。
つまり、それほど関心がなかったのです。理解しようという意志が彼らにはなかったのです。
マンションの耐震強度偽装問題が世間をにぎわせています。
先週は、耐震強度を偽装させてマンションを建て売りさばいた会社の社長が、
偽装を見抜けなかった地方自治体に責任があると訴訟を起こしました。
「そんなこと許されるか!」と憤りを感じた人々を多かったと考えます。自ら偽装をしたことを認めた行為です。
散々人を殺した連続殺人犯が、
「俺がこんなに人を殺したのは、捕まえなかった警察が悪い」
というのと基本的には同じです。
しかし、この社長さんの姿は、わたしたち人間の神様に対する態度と変わりありません。
イエス様は人を分け隔てなさいませんでした。人間のほうがイエス様の招きを断っているにも関わらず、
「わたしが救いにあずかれないのは、神様の愛が寛容ではないからだ」
と、訴えるのです。
「人の振り見て、我が振り直せ」という、ことわざの言うように、
わたしたちはあの社長さんに対して怒るばかりではなくて、
自分自身の内にそのようなことが沢山あることに気がつくようでありたいと願います。
気がついていないのは、語っている自分だけではないかと少しひやりとします。
4:21 また、イエスは言われた。
「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
ともし火は、イエス・キリストその方です。彼はこの世を照らす、光だからです。
しかし、私たち人間は、イエス・キリストを升の下に置いたり、寝台の下に置いたりしています。
升とは、物を量るもので、わたしたちの価値判断のことを言います。
わたしたちは、自分自身で、何が大切であり、大切でないかという価値を日々、判断しながら生きています。
そして、イエス様も素晴らしいか素晴らしくないか、私にとって重要な人かそうでないか、
役に立つのか立たないのかを勝手に判断しているのです。
しかし、真の神の子に対して、わたしたちが役に立つのか立たないのかを決めることは本当はできないことです。
神様の方が、わたしたちが役に立つのか立たないのかを決める側にあります。
にもかかわらず、わたしたちは神様の価値を自分たちで決めています。
それどころか、
「本当の神様なんて、どうでもいいや」
と無関心になっていないでしょうか。
それが「寝台の下に置く」ということです。
本当の神様についてもはや問うことなく、本当の神様を無視して、自分の思いにばかりとらわれていたり、
人間が作り出した像を拝んだりという偶像礼拝を行い続けるならば、わたしたちは福音の光を寝台の下に置いているのです。
わたしたちの最大の不幸の原因はここにあります。神様のわたしたち一人一人に対する思いと愛を知ろうともせず、
神様の大いなる愛に気がつかずにいることこそが不幸です。
わたしたちに起こるいわゆるこの世的な意味での不幸は、すべて神の御手から来たものです。
それは神があなたを選ばれて、神の子とされるためです。
神は、あなたに与えられた不幸を通して、
「わたしの子よ、わたしのもとに帰ってきなさい」
と呼びかけられているのです。
人間は、真の神に呼びかけ、語りかける者として、神によって創造されました。
生きることの本当の意味は、ただ一言「神様!」と神様に向かって叫ぶ一言に集約されるのです。
わたしたちがどんな立派な家に住んだとか住まなかったとか、社会でどんな働きをしたとかしなかったとか、
何を食べたとか、食べなかった、そのような諸々のわたしたちの虚栄心を喜ばすものは、
この「神様!」という叫びの前には何の意味もありません。
この「神様!」という叫びを心の内に持っているかいないかが決定的であるとイエス様はおっしゃいます。
4:24 また、彼らに言われた。
「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
この「神様!」という叫びを持ち、神の愛に応えようとする人は、この世の命ばかりでなく、永遠の命が与えられ、
神に向かって呼ばわり、神の御心を行おうとしない人は、ただ死が全てを奪い取ってしまうように、
持っているものまでも取り上げられてしまうのです。
神様への信仰をもって、この世を生きるということは、難しい困難な道ではありません。
わたしたちが一生懸命に努力して苦行をしなければならないというものではありません。
わたしたちは苦行をしたり、努力して得たり、
なかなか与えられないものでないと大切なものではないかのように思っています。
嘘偽りの偽の宗教は、このわたしたちの心を利用して、壺や仏像やペンダントを売りつけたりします。
しかし、イエス様を信じる信仰はそのようなものではありません。
4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
「神様!」という心の中の小さな叫びによって、わたしたちの人生は全く変えられてゆきます。
人生のどん底にたたき落とされた人々か、真の神であるわたしたちの主イエス・キリストに呼び求め、
その困難の中から立ち上がり、その困難のただ中で、多くの人々の心を癒し、
希望の光となっていった人々が数限りなくいます。
人生の意味とはつまりそのようなところにあるのです。
マンションの強度偽装やライブドアなどの騒ぎなどから、わたしたちは単にひどい愚かな人々だと思うよりも、
わたしたち自身の軽率さを反省し、しっかりとした一歩を歩み出したいと願います。
先日、1月21日に隣の水戸教会の白神章道先生が天に召されました。
その前夜式で「きみは愛されるため生まれた」という韓国のゴスペルソングが歌われました。
白神先生と若い頃からゴスペルバンドをなさっていた方が、白神先生の病床で最後に歌ったということでした。
この歌は、わたしたちの賛美歌の先生でした
在日大韓基督教会水戸伝道所のミン・メラ先生に以前ご紹介いただいたことがあります。
確か韓国のヒットチャートでトップに立った初めてのゴスペルソングとわたしは記憶します。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988