水戸は大雪になりました。
でもそんなに降り続きませんし、豪雪に見舞われている地域に比べればさしたることはありません。
ただあまり準備がされていないので、あわてます。
 茨城でお世話になった牧師先生が突然、天に召されました。
自分も日頃から準備をして感謝をもって生きなければならないことを改めて考えています。

みなさまに神の祝福を祈ります。    山本隆久


水戸中央教会 説教  
        2005年1月22日

「天国への入り口は足下にある」

申命記30章11〜15節

 
 
11:わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
12:それは天にあるものではないから、
 「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」
 と言うには及ばない。
13:海のかなたにあるものでもないから、
 「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、
 それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
14:御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
 15:見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。

 今日は、福音書ではなく、日本キリスト教団の教会暦による申命記の御言葉を中心として
お話をさせていただきます。

11:わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
12:それは天にあるものではないから、
 「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」
 と言うには及ばない。
13:海のかなたにあるものでもないから、
 「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、
 それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
14:御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

 わたしはこの御言葉にはっとさせられました。
わたしたちはなにかしら簡単なことを難しいことのように考える癖があります。
そのことによって、わたしたちは神の真理を深く理解しているかのようなふりをしたり、
思いこんだりしますが、実は、そのことを通して自分の間違いを覆い隠そうとするのです。
それは悪魔の誘惑です。

 この世的な、神に反する考えは、難しいことや困難なこと、
そして珍しいものや滅多にないものに価値をおきます。
 宝石や貴金属が高価であるのは、単に美しいからではなく、それが滅多にないものだからです。
 東洋には不老長寿の薬を求めるお話がありますが、
それらは大抵、人里離れた深い山奥や海の向こうへ旅をしてようやく手に入れる。
あるいは、はるか彼方の地にそれはあるという設定になっています。

 しかし、神の律法、神の教えは初めから単純でした。
 エデンの園で最初の人間に与えられた律法は、
「園のどの木から取って食べてもよいが、中央にある善悪の知識の木からは実を食べてはならない」
という単純なものでした。
 守ることの出来ない法を神は定めたのではありません。
しかし、人間は蛇のささやきにのってこれを破ってしまいます。
「単純なことほど、難しいのだ」
という結論を引き出すのではなく、神の側ではなく、
人間の側に罪の責任があったことをこの出来事は示唆しています。

 キリスト教神学というと何か小難しい理屈の集大成という感じがします。
何を言っているのか理解に苦しむような複雑怪奇な言い方をします。
それは、本当は神学が難しいのではなくて、
単純なことを言っている神の言葉を聴く人間が色々な誤解をするので、
それを防ぐために複雑怪奇な表現になってしまうのです。
 神学に責任があるのではなくて、誤解をする人間の側に責任があるのです。

 不信仰が、物事を複雑にします。わたしたちは単純になろうではありませんか。
「幼子のようにならなければ、天の国に入ることはできない」
とイエス様は教えてくださいました。
神の国はわたしたちが複雑に考えるところではなく、単純に考えるところにあります。

 なぜわたしたちは複雑に考えるようになってしまうのでしょうか?
それは、わたしたちが自分の立場を考えるからです。
自分の立場を守ろうとするからわたしたちは複雑になるのです。

 教会内の会議などでもこのようなことは起こります。
色々な立場を考慮してものを言うと、何も言えなくなってしまうということに
わたし自身直面することが多々あります。
 また、他人からの攻撃や批判を避けるために、
複雑で何を言っているのやらよく分からない発言を聞くことがあります。
そのために議論が膠着状態になってしまったり、和解が成立しなくなってしまいます。

 大衆扇動家は、言葉を単純にして繰り返して大声で言うことにより
人々を自分の思い通りに利用しようとします。
この手法は、人々のエゴに訴えてこれを利用することです。
 単純に考えましょうということは、自分自身のエゴに振り回されることではありません。
それは愛するということです。
「神を愛し、隣人を愛する」という愛にお
いて単純であり続けるということです。

 わたしたちは何か複雑なことが出来たり、複雑なことが理解できたりしますと
何か自分が偉い人であるかのように思います。
しかし、神さまはわたしたちが単純なことに留まり続けることを喜びます。
単純に人を愛し続けることを神は喜ばれます。

 神様は単純な律法を人間に与えられました。
ところが、その律法を人間は複雑怪奇なものにしてしまったのです。
そして守れるものも守れなくしてしまったのです。
いや守れるものを守らなくても良いものにしてしまったのです。
 その複雑怪奇となった律法をうち破るために神様は人となってこの世に来て下さいました。
それがイエス・キリストです。

 神はわたしたちの手の届かない天や海の彼方の遠いところにいらっしゃるのではなくて、
わたしたちのすぐそばにいて下さる方だと身をもって教えて下さり、示して下さいました。
 わたしたちが痛み苦しむとき、神はいないのだとわたしたちは思いこんでいますが、
神はわたしたちの痛みや苦しみの中にもいて下さる方であることを示して下さいました。
 神ご自身が、人からうち捨てられ、罪もなく十字架で殺されることを良しとされました。

 神様はわたしたちが喜ぶところにだけいらっしゃる方ではありません。
悲しみの中にも神はいて下さいます。
 唯一真のイエス・キリストの父なる神様は、
わたしたちを決して見放さない方だとイエス様は教えて下さったのです。

 年の初めに人は一年の目標を考えます。
教会としても、今年一年の目標を考えることも意味のあることと思います。
 わたしとしましては、教会の中で単純、率直に話すことを目標としたいと思います。
なかなか難しいことですが、神の力によって、そのことが出来ることを信じて歩みたいと願います。
 また、単純、率直にみなさんがわたしに語って下さったとき、
感謝をすることが出来るようになりたいと思います。
 単純、率直な言葉に案外人は傷つくものです。
でもその痛みを乗り越えて、良いものに変わってゆく機会となるように努めたいと願います。

 わたしたちの信仰は、「裸の王様」を見て、ありもしない素晴らしい着物を、
素晴らしいということではありません。
 「王様は裸だ」と叫ぶ少年こそが、わたしたち信仰者のあるべき姿です。
本質を見ること、神を愛し、隣人を愛することから見えてくる真実に立ち続けてゆきたいと願います。
 信仰を持つ者は「疲れた」と言っても構わないのです。
主イエス様は、
「疲れた者はわたしのもとに来なさい。わたしはあなたを休ませてあげよう」
とおっしゃっています。
「疲れた」と言わなければ、休ませていただくことは出来ません。
 そして、神様は、わたしたちを休ませて下さり、
イザヤ書にあるようにわたしたちを造りかえて下さるのです。

40:31 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

 複雑怪奇な道に迷い込んだとき、主に立ち返りましょう。手を挙げて祈りましょう。
主は必ず答えて下さいます。
 その時、神様はわたしを決して見捨ててはおかれなかったというのが聖書の歴史です。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教