[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」

水戸中央教会 説教       2005年1月15日

「神にとってあなたは何なのか」

マルコによる福音書1章14〜20節

 14:ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 16:イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、
  シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
17:イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
18:二人はすぐに網を捨てて従った。
19:また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、
 舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
20:すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、
 イエスの後について行った。

15:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 この言葉でイエス様の宣教は始まりました。そして、それは終始一貫した聖書の福音のメッセージです。
わたしたちは、この「悔い改め」と「福音を信じる」ことをどのように理解しているでしょうか?
「悔い改め」を理解することは、なかなかわたしたちの生まれ持った感性によって出来ることではありません。
 この「悔い改め」は、何であるかをわたしたちは時間をかけて学ぶ必要があります。

 「悔い改め?そんなものわたしには必要ない」と、多くの人々は考えます。
「必要なのは努力であり、精神的に強くなり、能力を身につけること、勤勉であることだ。
こんなにわたしはがんばっているのに、なぜ悔い改めなければならないのか?」
と、わたしたちは考えます。わたしたちは自己を絶対化しているからです。
謙虚さでさえも、そこでは人間的修練や訓練の成果となってしまいます。

 「悔い改め」とは、自分の本当の姿に気がつくことです。自分の現存在を認識することです。
自分があわれで、ちっぽけな存在であることに気がつくことです。
 この自分があわれで、ちっぽけな存在であることに気がつくことがいかに困難なことでしょうか?
わたしたちは、人があわれで、ちっぽけな存在であることは、簡単に認識しています。
人があわれで、ちっぽけにするためにわたしたちは一生懸命、努力さえします。
そして、その努力を人は褒め称えさえします。
 人をあわれで、ちっぽけなものにすることにより、自分はそうではない、
偉大な価値ある者だとわたしたちは主張したいのです。
 これは、わたしたちの心の中の問題ですが、わたしたちの心の中の問題は、
わたしたちの社会全体を決定しています。わたしたちの心が社会を造ってしまうのです。

 先日、新聞にインドでは、お腹の赤ちゃんが女の子だと分かると中絶されてしまうことが頻発しており、
年間、何万人もの赤ちゃんが生まれる前に葬り去られてしまっているという記事がありました。
あちらの習慣では、男子が家督相続権を持っており、結婚の際、花嫁の家が大変なお金を支払うという習慣などもあり、
女子が産まれるのを喜ばないのだそうです。
そのため、中流以上のお産に関して医者に行くことのできる人々の間で、
女の子の出生率が非常に低くなっているというレポートでした。

 現代の日本には、もちろんそのようなことはありませんが、しかし、今もそのような男女差別はあります。
自分は男として生まれてきまして、全く差別する側にいますから気がつきません。
ふとこの記事を読んで、分からなかったことが、分かった気がしました。
 つまり、自分の心の中にある「女性差別」に気がついたということです。
わたしは女性の気持ちが分からない人だと言うことで定評があります。
今、こういう話をしていること自体、女性の気持ちが分からないことの証明かもしれません。
ただ、それまで、この悪い評判を全然気にしていませんでした。
「俺は男だから、女性の気持ちなど分かる必要などない」と、どこかで思っていたのです。
 しかし、ふとこのインドの記事を読んだ時に、生まれてきた時というか、
生まれて来る前から望まれていないという社会に生きてゆくことの深刻さに気がついたのです。
それまで、どこかしら「女性は感情的だ」とか「気分に流れやすい」とか思っていましたが、
それはちゃんと正当な理由があること、自分の物差しの方が間違っているかも知れないと遅まきながら気がついたのです。

 わたしも40歳半ばになり、人並みにガンの検診などを受けるようになりました。
普段、あまり病気などしないせいか、病気になるとちょっとした熱や痛みでも、
わたしは「ひぃ、はぁ」と大変なことになります。
 先日も内視鏡で大腸ポリープを切除するということがありました。
ガンの痛みには、比較も出来ませんが、注腸検査などで、空気を腹に入れられると本当に苦しい思いがしました。
ものを考えたり、判断をしたりというようなことは、もう出来ませんで、
ひたすら「うわぁ、止めてくれ」という感じでした。

 色々な心の重荷を持っている人々がわたしたちの身の回りにはいます。
自分が調子よく走っていますと、その道に休んだり倒れたりしている人は、
「なんだ情けない。しっかりしろよ」とというように見えます。
そして「俺はお前を追い越した」なんて不遜なことを思っています。
 けれど、自分がその立場になりますと、
「大丈夫ですか。ここまでよく頑張ってきましたね」と言うべきなのだということに気がつきました。

 「悔い改め」とは、自分中心の世界に気がつくことです。
自分が、無意識のうちに自分中心の世界に生きていることにはっと目覚めることです。
それがイエス・キリストとの出会いです。
 イエス・キリストに出会うとき、わたしたちは神を中心として生きた方に出会います。
そのことによって、わたしたちは自分が神を中心として、
正義と真実をもって生きてきたと思っていたその傲慢をうち砕かれるのです。

 シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは漁師でありました。自分のため、人のために魚をとる漁師でした。
イエス様は彼らにおっしゃいました。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」
 彼らは、人のため、自分のためではなく、神のために人をとる漁師とされます。
彼らの生き方が全く変えられたのです。

 わたしたちは自分のため、人のために魚を捕る漁師と同じように、自分のため、人のために働いています。
そして、漁師が魚の豊漁を願うように、神に祈ります。
これこれの仕事がうまくゆきますようにとか、色々な問題の解決を神に祈ります。
 しかし、それは詰まるところ自分のための祈りです。

 しかし、イエス様の示された道は、神のために働き、人に願う道でした。
つまり、人々に神様を信じて悔い改めましょうとお願いする道でした。
 わたしたちは祈りを見直す必要があるのではないでしょうか?

 祈りにおいて、わたしたちは神様にいまだにどうこうしてくださいと祈っています。
それも大切ですが、神様がとりあえず、わたしたちの心の中に多少なりとも存在しているのですから、
それは神を信じない者であったわたしたちにとっては大きな進歩です。
そして、その祈りは徐々に成長してゆきます。
 わたしたちは全て神に必要とされて生まれ、この世に生きているのです。人は望まないかも知れません。
なぜならば神を人は知らないからです。

 しかし、神の目には、わたしたちが必要と思えないようなこと不必要と思うことにもちゃんとした意味があり、
それどころかそこに神の限りなく深い知恵があるのです。

 神は、この全世界を創造されて全てを良しとされました。わたしたちの誰もが良しとされているのです。
そして、生きる目的を確かに与えられているのです。
何かを作り出すこと、なにか素晴らしい人助けをすることが良いことなのではありません。
 神に生かされていること、神が、わたしたち一人一人を創造された事実を信じること、
ここに人生の究極の目的があるのです。
 あなたが今、どのような状況にあろうともイエス・キリストを信じること、
それが神の望みであり、わたしたちの人生の目的です。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教