
水戸中央教会 説教 2005年1月8日
「イエスの洗礼」
マルコによる福音書1章9〜11節
9:そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、
ヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた。
10:水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、
御覧になった。
11:すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、
天から聞こえた。
2週間前、昨年のクリスマスに、私たちは一人の姉妹の洗礼に証人として立ち会うことを許されました。
私たちそれぞれが、自分の洗礼を受けた時を思い出したのではないでしょうか。
本日、私たちに与えられている聖書の箇所はイエス様が洗礼を受けたときの報告記事です。
わずか三節で数行の記述で、4つの福音書の中でもっともシンプルにマルコ福音書は記録しています。
「霊が鳩のように降ってきた」というのは、いつも「一体、どんなふうだったのかなぁ」と、疑問に思います。
イエス様の生涯を扱ったある映画では、
本物の白い鳩が舞い降りてきてイエス様の肩だか頭だかにちょこんと止まりました。
みんな笑いましたね。でも、笑ったのは聖書の記述を知っている人たちだけです。
「あれは霊ではなくて、鳩だろう」と思いましたが、
「それではどうしたら良かったのか?」と、問われたら応えられませんから、
「仕方がないよなぁ」と、思っています。
「天が裂けて」というのは、雷か何かとしてその映画では表現されていました。
聖書によりますと、天が裂けたり、鳩が降ってきたのを見たのは、イエス様ご自身だけです。
「見た」という語が三人称単数となっています。日本語では「ご覧になった」と訳されています。
ですから、それは霊的な出来事であって、そこに居合わせた人々が見た現象ではありません。
妄想、幻聴、幻覚ではありません。
「どこが違うのか?」と、問うならば、それは事実が証明しています。
イエス様の説教が人々の感動を引き起こしたという霊的な事実であり、
目に見える形では、それは病の癒しなどの奇跡です。
これに対して、妄想、幻聴、幻覚は、最終的に人々に破滅をもたらします。
「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉でマルコ福音書は始まります。
そして、イエス様は、登場するなり、いきなりヨハネから洗礼を受けます。
イエス様は神の子なのですから、罪を告白して、悔い改める必要はない方です。
しかし、その方が洗礼を受けられたということは、
イエス様は、罪を告白して、悔い改めることを欲せられたのです。
ここに福音書の全てのメッセージが凝縮されていると言っても過言ではありません。
なぜならば十字架もまた、ご自身の罪のためではなく、私たちの罪を十字架において負って下さっているからです。
神が人となられました。そのことを福音書は私たちに伝えようとしています。
人が神となる道を説いているのではありません。
私たちは神になろうとあがいています。
「神になることは不可能だ」と、言われれば、「それはそうだ」と、思いますが、
「神となろう」とする考えから逃れられません。
自然発生的な宗教が、ほぼ例外なく、「人は死ねば、神となる」という信仰を持っているのはその証明です。
それは、私たちの願望の投影に過ぎません。
イエス様は神の子であるにもかかわらず、人となり、ヨハネから洗礼を受けられました。
神に背き続けている罪を告白するべきなのは、わたしたち人間の方であるにもかかわらず、
神の御心そのものであるイエス様が洗礼を受けられました。
ですから、わたしたちは今日、洗礼を受けるのです。
イエス・キリストを信じてわたしたちは洗礼を受けます。
罪のない神の御子が、自らを罪ある者と告白されたのに、ただの人間に過ぎないわたしたちは、
罪がないなどとはもはや言えないからです。
神様は、ご自身の身をもって、わたしたちが、どのように生きるべきかを示して下さったのです。
他の福音書に言われていますように、イエス様は神の子なのですから、本来、洗礼を施す権威を持った方です。
洗礼者ヨハネは、他の福音書記録によると、
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきですのに、私からあなたが洗礼を受けるのですか?」
と驚きの声を発しています。そして、それは父なる神の御心に適うことでした。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
と、あるとおりです。
私の夢や願いを実現するのではなくて、神の願いと思いを実現するのがわたしたちの使命です。
神は、今、わたしたちに何をしなさいと求めていらっしゃるのでしょうか?
そのことにわたしたちは心を用いたいと思います。
わたしたちの中には、願いや思いが充ち満ちています。その全ては、わたしたちにとって良いものです。
親が子を思いやる気持ち、子が親の健康を祈ること、
世界平和や人類の繁栄と平安を願うことに誰も文句をつける人はいません。
しかし、神はわたしたちが願っていることを願わないとでも言うのでしょうか。そうであるはずがありません。
神はわたしたちが願う以上に、世界の平和と人類の繁栄を願って下さっています。
問題は、わたしたちが神の願いに応えようとしないことです。
神の栄光を讃えることを第一とするのではなくて、
自分が讃えられることを求めてしまうわたしたちが悔い改めることです。
礼拝はまさにそれ故に大切にされてきました。
神の国の支配が広がることを望むのではなくて、わたしたちはすぐに自分の影響力の広がることを求めます。
時としては、自分が全く影響を与えていないことでも気にするようになるほどです。
賭け事や勝負事でのげんかつぎや占いやまじないはこの類です。
占いが流行るというのは、誰もが、自分の影響力を広げたいという下心を持っているからです。
正月にテレビのチャンネルを変えていましたら、占い師がやはり登場してなんやかやと言っていました。
「般若心経を唱えなさい。祖先供養をしなさい。そうすれば運が向いてきますよ」
と、その占い師はしきりに言っていました。
彼女が、
「聖書のここの箇所を100遍唱えなさい。礼拝に行きなさい」
と言わないことに気がついて、私はホッとしました。
やはり聖書は、正しい神の言葉だと思いました。
仏教界は、占い師に般若心経を持ち出されても抗議をしないのでしょうか?
抗議をしていても、私の耳に入ってこないだけかもしれませんが、あまりそういう話を聞きません。
放送され続けているという事実は、仏教界が放置しているということの証明でしょう。
わたしたちは日々の食事を与えられていることを当たり前だと思って、神に感謝することの薄いものです。
そして、有り余るほどあっても、分け与えようとはしません。
バブルでお金が儲かって儲かって仕方がなかったようなとき、
その儲かったお金で、人々はもっと儲けようとして、リゾート・ホテルをあちこちに建てたり、
高級な店がいくつも建てられたりしましたが、
病人や障碍をもった人々、貧しい人々のためにお金が使われたという話はあまり聞きませんでした。
わたしたちが感謝を知らないことの証明です。
先日もソニーの創業者だかの子孫の方が、その株式を放棄しなければならなくなったおいう記事が新聞の一面にありました。
それはイタリアだかのレース業界に投資して失敗したからだということでした。
世界の飢餓のために金を使い果たして破産したという人の話を、私は聞いたことがありません。
他山の石としなければならない話だと思いました。
神様は御子を十字架につけてまで、わたしたちの罪を赦そうとされていますが、
わたしたちは相変わらず、人を赦そうとはしません。自分の正しさを主張し続けています。
わたしたちがいかに神の御心を考えることなく、普段、考え行動しているかということをわたしたちは、
まず知らねばなりません。
『国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり』
と主の祈りの最後にはありますが、国も力も栄えも全て自分の物だと思っているわたしたち自身の姿に、
わたしたちはなかなか気がつかないものです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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of The Common Bible Translation
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Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988