
水戸中央教会 説教 2005年12月18日
「キリスト誕生の告知」
ルカによる福音書1章39〜56節
39:そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
40:そして、ザカリアの家に入ってエリザベトに挨拶した。
41:マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリザベトは聖霊に満たされて、
42:声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
43:わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょうか。
44:あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
45:主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
マリアの賛歌
46:そこで、マリアは言った。
47:「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
48:身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう。
49:力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
50:その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
51:主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を撃ち散らし、
52:権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
53:餓えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
54:その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません。
55:わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
56:マリアは、三か月ほどエリザベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。
第4アドベントを迎えました。
日本はキリスト教国ではありませんから、クリスマスの12月25日が日曜日でなければ礼拝を守ることができません。
それで日本のキリスト教会は、第4アドベントの週にクリスマスがある場合、
一足早く、第4アドベントにクリスマスを祝っています。
今年は、6年あるいは7年に一度12月25日が日曜日に当たる年で、
他国のキリスト教会と足並みをそろえてクリスマスを祝います。
またギリシャやロシアの正教会は1月6日をイエス・キリストの誕生日として祝います。
アドベント・クランツはスイスの牧師の考案だと記憶しますが、
4本のローソクが灯ったらクリスマスを迎える準備ができましたという意味で、
クリスマスが第5週目だからと5本目のローソクを今年は用意しなければならないということではありません。
クリスマスは、キリスト教会にとって大変に大きな祭りですが、
いわゆる西方教会と東方教会(地中海世界の西と東)ではその日付が違っていますし、
祝われるようになったのは3世紀以降で、イースターに比べればそれほど重要な祝日ではありません。
12月25日でなければならないとがんばる必要はありません。
重要なのは、私の心の中にイエス・キリストへの信仰が芽生え、
根付き、育ってゆくかであり、このことが決定的なことです。
イエス・キリストを身ごもった母マリアは、イエス・キリストを信じる信仰を与えられたわたしたちの象徴です。
天使からイエス・キリストを身ごもるというお告げを受けて、彼女は神の力によって妊娠します。
それは、わたしたちにとって、わたしたちが聖書の言葉に触れて、
イエス・キリストを信じる信仰を与えられることを意味しています。
信仰は与えられた恵みであって、わたしたちが自分で作り出し、
わたしたちのほしいままにしていいものではありません。
イエス・キリストへの信仰がわたしたちの心の中に芽生えたならば、
わたしたちはそれを大切に育ててゆく必要があるのです。
それは永遠の命の芽生えであり、わたしたちの人生の意味の全てがそこにあるからです。
さて、神の力によって身ごもったマリアは、同じように聖霊によって先に身ごもっていたエリザベトを訪問し挨拶をします。
この挨拶とは謙って相手に敬意を表すと言うことです。
単に「こんにちは、おやまぁ元気」と気楽に言った訳ではないのです。
41:マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリザベトは聖霊に満たされて、
42:声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
43:わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょうか。
イエス様は、後にこのエリサベトから生まれる洗礼者ヨハネから、洗礼を受けます。
マタイ福音書によれば、そのとき同じように、洗礼者ヨハネが、
「私の方があなたから洗礼を受けるべきなのに」
とイエスに言います。
ルカ福音書にはこのやりとりがない代わりにマリアがエリサベトに挨拶に行きます。
このパターンは、わたしたちクリスチャンがどのような者であるかを言い表しています。
それは謙遜さです。わたしたちの信仰が妄想ではないことの証明です。
もし、妄想によってわたしたちが信仰を与えられたと思いこんだならば、高慢になります。
自分こそが神から選び分かたれたもので、自分の思い通りに世界はなると考え、自分が世界の王であり、
全ての人は自分をあがめるべきだと思うのです。
自分から出かけていって敬意を示す挨拶をしたり、洗礼を受けたりはしません。
ふんぞり返って、相手から挨拶を受けることを好み、相手を屈服させ、自分は神の代理人であるとか、
神であるとか言い出しかねません。
人間は、誰もがこのような自分がこの世界の王であるかのような妄想を無意識のうちに持っています。
ですから、真実の王である神を信じることができないのです。
信仰とは妄想から覚めることです。
マリアに与えられた信仰がマリアをエリサベトに自ら挨拶に向かうという謙遜な行為へと導いたのです。
彼女の生来の徳ともいうべきものがそれをなさしめたのではありません。
彼女を謙遜な行いへと促したのは神ご自身です。
ですからマリアはエリサベトの言葉に対して、
「私の魂は主をあがめ、神を喜びたたえます」
と答えています。
普通の場合なら、エリサベトの言葉に対して、
「いえ、そんなことはありません」
と、高慢の裏返しのような似非の謙遜で応えたでありましょう。
あるいは「そんな、そんなエリサベトさんの方が素晴らしいですわ」と相手を持ち上げたかもしれません。
このような類のことを偽善というのです。
私自身もよく使う言葉ですから、分かるのですが、
「そんなことはありません」
と否定することによって、「そうなんです」と言っているようなところがありますし、
「あなたの方が素晴らしい」と言うことの背景には
「自分の方の素晴らしさ」を確定しているという事実があると反省させられます。
マリアは彼女に与えられた信仰によって、そのようには答えませんでした。彼女は神を賛美します。
このマリアの神への賛歌は単に彼女がイエス・キリストの母として選ばれたという喜びだけを意味するのではなく、
それはわたしたちクリスチャンが信仰を神から与えられたことの感謝と賛美でもあるのです。
わたしたち自身も彼女と共に彼女の歌をわたしたちのものとして歌うことができるのですし、
歌うことへと召されています。
マリアはイエス・キリストの母となるために、なにか特別に修行をしたとか、
素晴らしい徳の持ち主であったとか言うことは全く聖書は語っていません。
ただ神の約束の選びに基づいて彼女は選び出されました。
わたしたちもまたイエス様を信じる信仰を与えられるためになにか特別な修行をしたり、
素晴らしい人であったから信仰を与えられた訳ではありません。
マリアが幸いな人と言われるのは、イエス・キリストを産み、世に送り出したからです。
同じようにわたしたちクリスチャンも、イエス・キリストへの信仰に生き、
そして、それを他の知らない人々に伝えるならば、マリアと同じ業をわたしたちもなすのです。
イエス・キリストを信じることは、「主をあがめ」、「救い主である神を喜びたたえる」ことです。
イエス様は、ゲッセマネで捧げられた最後の祈りの中ではっきりとこうおっしゃっています。
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
(ヨハネによる福音書17章3節)
ですから、神を信じ、神が遣わされたイエス・キリストを信じることは、
主をあがめ、救い主である神を喜びたたえることです。私がなにかを達成したのではありません。
そのような妄想から覚めることが信仰です。
私がなにか偉い人になるのではありません。
そうではなくて
48:身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう。
とマリアと共に言うことができるからです。
神の前に立つとき、この地上で私が何者であったなどと言うことはできません。
妄想の世界であるこの世では、わたしたちは、自分の生まれや地位を人に言うことができるかもしれません。
しかし、神の前の現実の世界ではわたしたちはただのあわれな罪人にすぎません。
クリスチャンとして、イエス・キリストを信じる信仰を与えられたということは同じようにいつの世の人も、
わたしたちを幸いな者と言うのです。
イエス・キリストの御名が褒め称えられるところ、
どこにおいてもマリアが幸いな人とされるのと同じように、わたしたちもまた幸いなのです。
49:力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。
処女降誕という奇跡の業だけが力ある偉大なことではありません。
それによって生まれたイエス・キリストを信じることは、神の偉大な業に連なることです。
わたしたちがクリスチャンとなるということは神の偉大な業です。
単に神の力によって、処女降誕という奇跡が起きたとしても、生まれたその者が殺人鬼であったら、
何の偉大な業でもなく、悪魔の所行です。
50:その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
神の御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及ぶ、
私だけに及んでいなかった憐れみが今、私にも及んでいます。
代々に限りなく讃えられる賛美に、わたしたちも今、連なっているのです。
人間関係のしがらみの中で、押しつぶされそうになっていないでしょうか。
人からどう思われるかということに神経をすり減らしていないでしょうか。
あるいは人がどう思おうと私の勝手だと孤独の中に閉じこもり神を忘れ去っていないでしょうか。
「神を畏れることは、知識の始めである」と聖書は教えています。
わたしたちの全ての人生の原点は、神を畏れることです。
神への畏れをもって生きるところに実りある人生があります。
神への畏れをもって生きるとき、わたしたちは、
51:主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を撃ち散らし、
52:権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
53:餓えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
これらのことを、具体的にわたしたちの人生の中で体験するのです。
55:わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
聖書に書かれているように、その通りに、わたしたちはイエス・キリストと歩むとき、
その正しさを体験するのです。
わたしたちの人生は、この体験の旅の途上にあります。
神の真実に立ちつづけ、永遠の未来へ向かってわたしたちの歩みは続いているのです。
どうぞ、このわたしたち一人一人の一日一日が永遠へと続く日々でありますように。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988