水戸中央教会 説教        2005年12月4日

「旧約の神の言」

エレミヤ書36章1〜10節

 
1:ユダの王、ヨシヤのヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。
2:「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、
 イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。
3:ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、
 それぞれの悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」
 4:エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。
 バルクはエレミヤの口述に従って、主が語られた言葉をすべて巻物に書き記した。
5:エレミヤはバルクに命じた。「わたしは主の神殿に入ることを禁じられている。
6:お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、
 神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい。
7:この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、
 人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。」
8:そこで、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、巻物に記された主の言葉を神殿で読んだ。
 9:ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の第五年九月に、
 エルサレムの全市民およびユダの町々からエルサレムに上って来るすべての人々に、
 主の前で断食をする布告が出された。
10:そのとき、バルクは主の神殿で巻物に記されたエレミヤの言葉を読んだ。
  彼は書記官、シャファンの子ゲマルヤの部屋からすべての人々に読み聞かせたのであるが、
  それは主の神殿の上の前庭にあり、新しい門の入り口の傍らにあった。

 マンションやホテルの耐震強度偽造が今、私たちの間で大きな問題になっています。
この事件の詳細について説教壇から語る必要はありません。私が言うまでもなく、みなさんの方がはるかによくご存じでしょう。
入居者は本当にお気の毒だと思いますし、第三者として話を聞いているだけでも腹立たしく思われます。
新聞の社説には、
「家が壊れて人が死んだら、その家を建てた大工は殺されなければならない」
というハンムラビ法典の言葉を引用して最大限の批判をしていました。正当な意見だと私も思いました。
「本当にけしからん」と、誰もが思っているでしょう。
 しかし、テレビなどを見ていますと、誇大広告があったり、心霊現象や占い師、超能力などの番組があったりします。
やらせと嘘で固めた番組で、視聴率稼ぎ以外のなにものでもありません。
「何々を食べると健康になる」という手の番組も相当にうさんくさいと言われてます。
そんなウソに囲まれている現実を見ますと、強度偽造問題も、なにを今さらと言うべきなのかも知れません。

 私たちの人生も家の建築にたとえられます。私たちは何を土台として生きているでしょうか。
私たちの人生設計には強度偽造がないでしょうか?
 マンションの耐震強度偽造はいわゆる経済設計という言葉で粉飾されていました。
要はどれだけ手を抜いて安く建てて金儲けができるかが目的でした。
 私たちの人生設計で金儲けが第一目的になっていたら、
それはもう「業者が悪い。○△建設は何という会社だ」などと言っている場合ではありません。

 イエス様はマタイ福音書の中でおっしゃっています。
7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

 私たちは神の言葉を聞いて行っているでしょうか?
自分の思いがまず先にあって、その思いを正当化するために神の言葉を利用していないでしょうか。
もし聞いても行っていないならば、私たちは、自分の人生の耐震強度を自分で偽っているのです。

 本日、私たちに与えられた聖書の御言葉、エレミヤ書36章1〜10節です。

36:1 ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。

 これは紀元前605年の出来事でした。今から2610年前のことです。日本で言えば縄文時代の後期にあたります。
当時、神の民イスラエルは現在のエルサレム周辺にユダ王国という王国を形成していました。
 エレミヤは旧約時代の偉大な預言者の一人で、神様からの言葉を民に伝える働きをしていました。
このころユダ王国は、自分たちの唯一真の神を離れて、土俗の宗教や諸外国の宗教を信じるようになっていました。
それらは人身御供を行ったり、占いやまじないを行う宗教でした。日本の土俗信仰や神道などと同じものです。
そして力の強い者が弱い身よりのないものからかすめ取ることが横行していました。
 神は、
 「間違った宗教から離れ、神の正義に立ち返らなければ、あなた方に災いを下す」
ということをエレミヤに語り、エレミヤは民にそれを伝えます。
 エレミヤの言葉は王にも民にも聞き入れられず、ユダ王国は強大なバビロン帝国によって滅ぼされ、
神の都エルサレムは完全に破壊されます。民は虜となってバビロンの首都へ連行されてしまいます。
民は悔い改めませんでした。
 
 「災い」の意味について私たちは学ぶことができるのではないでしょうか。
よく「何年何月に地球は滅びる」とか「大災害が起こる」とかいう予言が流行ります。
一番、日本で近い有名なところでは「1999年7月に世界は滅ぶ」というノストラダムスの大予言でした。
オウム真理教に迷い込んだ人々は、
1970年頃に空前のブームになったこの「ノストラダムスの大予言」に何らかの影響を受けた世代、人々でした。
 キリスト教会内においてもこのような終末予言は沢山あります。
そしてイエス様自身、そのようなウソの終末予言をする者が沢山でてくると警告しています。

 エレミヤが民に伝えた神の言葉は次のようなものでした。

7:3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。
 そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。
7:4 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。
7:5 -6 この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、
 無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。
7:7 そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。
7:8 しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。
7:9 盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、
7:10 わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、
 『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。

 「世の終わりが来る」という嘘八百の予言に踊らされて人々のなす事は、ここにエレミヤが語ったことではありません。
「もうこの世は終わるのだから」と聞くと大抵の人々は自分の好き放題をして過ごそうと考えます。
 あるいは自分たちだけが助かるためにその宗教に献金をしたりします。
 しかし、エレミヤは、私たちがなすべきことは、
「お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流すなということなのだ」
と命じています。
 集団自殺をしたり、サリンを撒いたり、人に壺を売りつけて金をむしり取ったりということは、
全く神の裁きの言葉を無視したことです。嘘八百の予言に私たちは振り回されてはなりません。

 ルターは
「たとえ明日、この世の終わりが来るとしても、私は今日、一本のリンゴの木を植える」
という言葉を残しました。
この一本のリンゴの木とは、私たちが日常の日々の中で、お互いに対して誠実であり、
弱い立場にある人を思いやるということではないでしょうか。
 
 新興宗教や占いのいい加減な流言飛語、デマにすぎない「災害予言」は、
この日常と向き合うという姿勢が一様に欠けています。そうではなくて、そこではこの日常からの逃避が促進されます。
 目の前にいる人に助けの手をさしのべることを拒否することを偽予言は正当化し、だますことさえ正しいと言い張ります。
 予言が当たると、その占い師や教祖は自分の能力は素晴らしいと喧伝し、鑑定料が上がったり、
テレビに出たり、千円のペンダントを5万円で売りつけたりします。あるいはまことしやかに本を売ったりして儲けます。
ですから聖書の預言や預言者とは、全く違うのです。彼らは自分の栄光を求めません。
ただ神の栄光が現れることだけを使命としています。

 エレミヤは「異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない」と、命じています。
 第二次世界大戦前、ある国際会議で
「我が国の軍隊は、ただ神をのみ畏れる軍隊だ」とあるキリスト教国の代表が言いました。
するとある大日本帝国の代表は「我が国の軍隊は神をも畏れない」と自信満々に答え、
列席者を唖然とさせたということです。
「神を畏れない」とはどんな極悪非道なことも平然と行うことを意味しているからです。
 神に依り頼むとは、正義に依り頼むことです。私たちの神は正義と愛の神です。
逆にいえば、私たちは正義と愛を神としているのです。神とは私たちにとって最高の価値です。
すべての価値の源が神です。
 「神をも畏れない」という言葉は私たちの日本の文化圏において理解されうる言葉です。
「勇敢で、なにものをも恐れない勇気」を意味します。
しかし、この表現の示すところは、神が正義でないこともあるという私たち日本人の傲慢を表しています。
 私たちの願いと考えが神よりも正しいという前提がそこにはあります。
私たちは自分の願いに振り回されているのです。私の願いによって、私はこの世に生まれたのではありません。
そんな人は一人もいません。
私の願いだけが優先されるとき、
それは金儲けだけのために建てられた強度不足のマンションと同じように私たちの人生は崩壊の危機に直面しているのです。

 今一度、私たちは自分の願いと神の御心との違いを吟味するべきではないでしょうか。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教