水海道教会 出張説教           2005年11月27日

「それでもクリスチャン?」と言われるとき

イザヤ書51章4〜11節

4:わたしの民よ、心してわたしに聞け。
  わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。
  教えはわたしのもとから出る。
  わたしは瞬く間に
  わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
5:わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ
  わたしの腕は民を裁く。
  島々はわたしに望みをおき
わたしの腕を待ち望む。
6:天に向かって目を上げ
  下に広がる地を見渡せ。
  天が煙のように消え、地が衣のように朽ち
  地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても
  わたしの救いはとこしえに続き
  わたしの恵みの業が絶えることはない。
7:わたしに聞け
  正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。
  人に嘲られることを恐れるな。
  ののしられてもおののくな。
8:彼らはしみに食われる衣
  虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。
わたしの恵みの業はとこしえに続き
  わたしの救いは代々永らえる。

9:奮い立て、奮い立て
  力をまとえ、主の御腕よ。
  奮い立て、代々とこしえに
  遠い昔の日々のように
  ラハブを切り裂き、竜を貫いたのは
    あなたではなかったか。
10:海を、大いなる淵の水を、干上がらせ
  深い海の底に道を開いて
  贖われた人々を通らせたのは
  あなたではなかったか。
11:主に贖われた人々は帰って来て
  喜びの歌をうたいながらシオンに入る。
  頭にとこしえの喜びをいただき
  喜びと楽しみを得
  嘆きと悲しみは消え去る。  


 第1アドベントに入りました。町はクリスマスのイルミネーションで満ちています。
「キリスト教ってなんだったけ?」という疑問を一番感じる時です。
 私はクリスチャンホームの出身ではなく、大学生になってから教会に通うようになり、
洗礼を受けました。
 子供の頃はキリスト教なんて何にも知りませんでしたが、
クリスマスツリーを飾ったりするのは楽しみでした。
ですから、町のクリスマスのデコレーションを見て、
「あんなのは止めるべきだ」とは言えませんし、思いもしません。
 しかし、自分の子供頃の記憶をたどり、思い出しますと、
今の方がクリスマスは断然楽しいということは言えます。
「町のきれいなイルミネーションやプレゼントや食事が楽しいクリスマス」よりも、
イエス・キリストがお生まれになったということをお祝いできる今のほうが楽しいし、素晴らしいと思います。
 よく未だに「クリスマスはアメリカの習慣でしょう。」とか言われます。昔、私も子供の頃そう思っていました。
そして今、自分は日本人でありながら、似非アメリカ人のようになったのかというとそうではありません。
「イエス・キリストを信じる信仰」を与えられて、
「アメリカ人も日本人もないのだ。みんな同じ神の子なんだ」と思えるようになりました。
私の心は確かにイエス・キリストによって大きくされました。
 「クリスマスはアメリカの習慣」と単純に思っていた頃は、
「お正月は日本の習慣」と思っていて、神社に初詣に行きましたが、
そこでは「神国」は日本だけであり、日本人だけのものでした。
決してアメリカは神道によれば神の国ではありません。
中国も韓国も朝鮮も神国ではないのです。
この偏狭さに私はクリスチャンになってから気がつきました。

 最近、「それでもクリスチャンですか?」と、言われることがありました。
みなさんもたまにはそういう言葉に出会うことがあるのではないでしょうか。
 普段は別にあまり気にもとめないほどで、「そうですよ」の一言で済ませています。
 しかし、ふと思いましたら、この「それでもクリスチャンですか?」という言葉は、
案外クリスチャンでない方から言われるのです。
不思議というか当然というのか面白いなぁと思いました。
 私は確かにクリスチャンです。1981年10月4日に洗礼を受けました。
そのうえ牧師にまでなりました。
人をクリスチャンにするのが仕事ですらあります。
別に誇るようなことはありませんし、もちろん誇ることもできません。
それは感謝すべきことだと思っています。
 しかし、クリスチャンになって、成長させられてゆく課程で、
「あなたはそれでもクリスチャンですか?」
という問いやいらだちを人に表明することは段々になくなって来ました。
むしろ「彼または彼女は、それでもクリスチャンなのだ」と、
どちらかと言うと受け入れがたい人を受け入れるように、
許し難い人を許すように心を用いるように変えられてきました。
このことに私は、気がついたのです。

 キリスト教について何にも知らない人が、「それでもクリスチャンですか?」と平気で言う、
おかしなことですが、当人はその矛盾に全然気がつかない。
自分がクリスチャンでなければ、クリスチャンのなんたるかも知らないはずです。
それなのに「あなたなんかクリスチャンではない」と言ったり、
「クリスチャンなんてそんなものなんだ」と見下げたりするのはおかしなことです。
 逆に言いますとノン・クリスチャンで、キリスト教について何も知らない人ほど、
「それでもクリスチャンですか?」と言えるのです。
 ですから、私たちは、自分たちの心の中に、
「あの人は、あれでもクリスチャンか?」というような疑問が起こるとき、
気をつけなければなりません。
それは、私たちがクリスチャンでありながら、クリスチャンとしての道を踏み外しているサインです。
イエス・キリストを信じて罪を赦された私たちが、
その神に対する感謝を忘れて、他人の罪を糾弾しようとしているからです。

 私たち、クリスチャンとはどのような人々でありましょうか?
本日のイザヤ書51章は、私たちがどのような人間であるかを明確に宣言しています。

4:わたしの民よ、心してわたしに聞け。
  わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。
  教えはわたしのもとから出る。
  わたしは瞬く間に
  わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
5:わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ
  わたしの腕は民を裁く。
  島々はわたしに望みをおき
  わたしの腕を待ち望む。

 ここで「わたし」というのは神様ご自身です。そして、「わたしの正義」とあります。
私たちクリスチャンは、神様に正義があると信じる人々です。
ですから、人間である私たちに正義はないと告白するのが私たちクリスチャンです。
「ブッシュ大統領なんてクリスチャンの風上におけない」と、息巻くのは私たちのなすべきことではありません。
彼も確かにクリスチャンです。
 そして、私たちは自分が彼の立場ならば、彼以上の間違いをするだろうと考えるべきですし、
自分の小さな生活の中に、正義にかこつけて不正と自分の欲を満たそうとする偽善を見いだすべきです。

6前半:天に向かって目を上げ
  下に広がる地を見渡せ。
  天が煙のように消え、地が衣のように朽ち
  地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても
  わたしの救いはとこしえに続き
  わたしの恵みの業が絶えることはない。

 私たちクリスチャンは希望を失わない人々です。いかなる時にも神に望みをかけることができます。
 私たちは、絶望しています。私たちの罪の故に、
私たちが何も自分自身で善をもたらすことができないという絶望を知っています。
その絶望の闇の中に神の光は確かに輝いています。ですから私たちの希望は失われないのです。
 私が何者かであるという自負を持っているとき、私には何か良いことができると思っているとき、
私たちは神の光の前に立ちはだかり、神の光をさえぎっています。
そして私たちは挫折し、失望してしまいます。
「もう自分はだめだ。生きている価値などない」と、自分で思いこんでしまいます。
簡単に私たちはそう思いこんでしまいます。


6後半:天が煙のように消え、地が衣のように朽ち
  地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても
  わたしの救いはとこしえに続き
  わたしの恵みの業が絶えることはない。

 全ての望みが絶え果てても、私たちの神は恵みの業を私たちになしてくださる方です。
私たちは、人間の死を最終的、決定的なものと思いこんでいます。
 しかし、イエス・キリストによって私たちに示された事実は「復活」でした。
死が人間の最終的な到着点ではないことが明らかにされたのです。
この世の命が過ぎ去るのと同じように、この世の死も過ぎ去るのです。
 私たちが「ぶよのように死に果てても」、
何の価値もない虫けらのように殺されたとしても私たちは神の恵みの業に望みをおくことができるのです。

7:わたしに聞け
  正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。
  人に嘲られることを恐れるな。
  ののしられてもおののくな。
8:彼らはしみに食われる衣
  虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。
わたしの恵みの業はとこしえに続き
  わたしの救いは代々永らえる。


 なんと大きな慰めの言葉でしょうか。「それでもクリスチャンですか?」と人々にあざけられるとき、
私たちは確かにクリスチャンそのものなのです。
人を赦し、愛するということは、決して人から尊敬され、ほめられるということと同じではありません。
むしろ、人を赦し、愛そうとするとき、私たちは嘲られ、ののしられるのです。
 愛すると言いながら、人を支配し、人々の間に君臨しようとするならば、嘲られることはありませんし、
ののしられることもありません。
 私たちは、私たちが支配することを望むのではなく、神が私たちを支配してくださることを待ち望みます。
神の支配は私たちが嘲られ、ののしられても揺るぐことはありません。
そして神は私たちが人から嘲られ、ののしられても私たちを決して見捨てられません。
「わたしの恵みの業はとこしえに続き/わたしの救いは代々に永らえる。」のです。

9:奮い立て、奮い立て
  力をまとえ、主の御腕よ。
  奮い立て、代々とこしえに
  遠い昔の日々のように
  ラハブを切り裂き、竜を貫いたのは
    あなたではなかったか。
10:海を、大いなる淵の水を、干上がらせ
  深い海の底に道を開いて
  贖われた人々を通らせたのは
  あなたではなかったか。
11:主に贖われた人々は帰って来て
  喜びの歌をうたいながらシオンに入る。
  頭にとこしえの喜びをいただき
  喜びと楽しみを得
  嘆きと悲しみは消え去る。  

 神がご自身が、私たちを勝利に導き、救いの喜びに導いてくださるのです。
イエス・キリストによって救いの道が開かれました。私たちがそれを勝ち取ったのではありません。
私たちが労苦して、努力の結果として永遠の命への道が開かれたのではありません。
 イエス・キリストの御業によって、それはなされました。イエス・キリストを造ったのは私たちではないのです。

10:海を、大いなる淵の水を、干上がらせ
  深い海の底に道を開いて
  贖われた人々を通らせたのは
  あなたではなかったか。

 私たちはただ絶望の底から救い出された者たちではなかったでしょうか。
自らを誇るのではなく、神への感謝をもって、このアドベントの時を過ごしたいと願います。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

テモテ牧師礼拝説教