水戸中央教会 説教     2005年10月20日

「ダビデ王の選び」

サムエル記上16章 1-16節

 
1:主はサムエルに言われた。
 「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。
 わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。
 角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。
 わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
2:サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」
 主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、
3:いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。
 あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。』
4:サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。
 「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
5:「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。
   サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
6:彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
7:しかし、主はサムエルに言われた。
 「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。
 人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
8:エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。
 「この者をも主はお選びにならない。」
9:エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。
 「この者をも主はお選びにならない。」
10:エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。
 「主はこれらの者をお選びにならない。」
11:サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」
 「末の息子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、
 サムエルは言った。
 「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
12:エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。
 「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
13:サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。
 その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。
 サムエルは立ってラマに帰った。

 14:主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。
15:サウルの家臣はサウルに勧めた。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。
16:王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。
 神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう。」

 
 イスラエル民族に王政が誕生するのは、紀元前1012年です。
それまでは異民族の攻撃など緊急事態ごとに部族が連合して対処していました。
しかし、外敵特にペリシテ人との対立が深刻になり、
他の国々と同じように王のもとに常備軍を置くことを望む声がイスラエル民族の中に強くなってきました。
 また王のもとに権力を集中して、他国と同じように強くて豊かな国を造ろうと望んだのです。
 当時の宗教的、政治的指導者であった神の人サムエルは、サウル王をイスラエル民族最初の王として任命します。
サウル王は、めざましい活躍をしますが、決定的な点で過ちを犯します。
端的に言いますと栄光を神に帰すのではなく、私利私欲のために着服したのです。
そして、彼は口では自分の過ちを認めますが、悔い改めようとはしなかったのです。

 1前半:主はサムエルに言われた。
    「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。
 


 ここにおいて、サムエルはサウルのことを嘆いています。
自分が油を注いで王とした人が、神に背いたゆえに彼は悲しみの中にあります。
サウルの王としての権力は、今や絶大でありました。
ペリシテ人との戦いにおいて彼はわずか6百人の手勢で、
戦車3万、騎兵6千、兵士は海辺の砂のように多かったというペリシテ人の軍勢に勝利します。
しかし、その際に、サムエルとの約束を守らず、サムエルのいないところで焼き尽くす捧げ物を捧げました。
しかし、彼は戦いそのものには勝利しました。アマレクとの戦いにおいても勝利します。
神の命令に従わず、兵士に戦利品を分け与えます。しかし、彼は勝利したのです。
圧倒的な勝利によって、サウルの王としての人気と権威が民衆の間に高まっていたのは間違いのないことです。
サムエルは、ある意味もはや不要の者として見なされるような状況があったと考えられます。

2:サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」
 主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、


 サムエルのこの言葉は、サムエルの権威の力が及ぶ範囲よりも、サウルの権力が勝っていることを示しています。

 あまり適切な例ではありませんが、小泉首相が郵政民営化を旗印に、圧倒的な勝利を衆議院総選挙で勝ち取り、
もう誰も彼に反対できなくなってしまったような状況です。
「小泉首相は信念の人で靖国神社にも参拝する。」と、むしろこの暴挙が賛美されるような状況が今日生まれています。
 「勝てば官軍」と言う言葉が日本にありますけれども、「勝てば神の民」という風潮がこのイスラエルを支配していました。
 聖書を見ますと、その治世が長かったからといって善い王であったとは評価されていません。
マナセ王の治世は40年あまりに及び、旧約聖書に登場する歴代の王の中で最長を誇りますが、彼に対する評価は最低です。
最低最悪の王であったと断罪されています。神の御心に従い、神を重んずるか否かが聖書において決定的なことです。
 経済力や軍事力やその他の策謀によって人は権力の座に少しばかり長く留まることが出来るでしょう。
しかし、そのことは、その人が正しく神から与えられている権力を行使しているかどうかとは別のことです。
私たちは罪人なので、すぐに治世が長かったり、その国の経済的発展が一時的でも成し遂げられたりしますと、
そのような成果を上げた治世者は正しいかのように思いますが、神はそのようには見ません。

6:彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
7:しかし、主はサムエルに言われた。
 「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。
 人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」


 ここで王として油を注ぐべき者を選ぶに際して、容姿や背の高さに目を向けるなと神はサムエルにおっしゃっています。
それは国の発展においても同じことであり、
その経済的な発展の度合いや軍事力によって国やその国の王が評価される訳ではないのです。
これが聖書の基本的な歴史観です。
 栄華を極め知恵に満ちたソロモンと聖書は高く評価していますが、
それは彼が見事なエルサレム神殿を建造したのがその主たる根拠であって、
個人的な生活において贅沢をしたというならば、他の王の方がもっと贅沢をしているという可能性はあるのです。

1節後半:わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。
    角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。
    わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」


 サウルはイスラエルの王としてその権威と権力、威光は民の間で絶頂に達していました。
人の目にはこの王の権力が揺らぐことがあるのかと思えるほどでした。
みんなが「この王は素晴らしい。この王こそイスラエルを守り導く最高の指導者だ。」
と褒め称えている最中に神はサムエルに使命を与えます。
 人気絶頂の王を廃して、新たな王を選び、油を注いで王に任命する儀式を行えと神はサムエルに命じるのです。
彼は命の危険が伴う任務を与えられました。
 彼はベツレヘムのエッサイのもとへ行くように命じられます。ベツレヘムとは、後にイエス・キリストが生まれる地です。
 イザヤ書には「エッサイの切り株より一つの若枝が生えでて」という預言が残されているエッサイです。
エッサイはこの地域の族長の一人でした。
 イエス・キリストが人々の知らないところで、お生まれになるように、
イスラエルの歴史の中で最高の王と讃えられるダビデは、
誰も知らないところで密かにサムエルより油を注がれ王に任命されます。
この時、王として油が注がれるとは、全く宣言されません。秘密裏にそれは行われるのです。
 歴史を導く神の御手は、誰も気がつかない世界の片隅で始められます。いつもその時、一人の人が問題なのです。
イエス・キリスト、神の御子の誕生も誰にも知られず、世界の片隅で起こりました。
 信仰の父といわれるアブラハムもまた、彼に御言葉が与えられ、神の言葉によって彼は家族を連れて故郷を捨てて旅に出ます。
神の与える地を信じて旅立ちます。

 私たちは「たった一人だから、なにも出来ない」と、思ってしまいがちです。
しかし、神様はいつもその御業をたった一人を用いてなさるのです。
ですから私たちは、自分がひとりぽっちであることを価値のないこと、意味のないことと思ってはならないのです。
 神の御心を行おうとする一人は、サウルとサウルが率いる何万もの軍隊よりも強いということが言われているのです。
 サムエルは、軍隊を用いてサウルを倒す訳ではありませんでした。
ダビデにサウル追討を命じたりをサムエルはしませんでした。
ただ、エッサイのもとに若い雌牛を引いて行き、サウルの目を逃れて、いけにえを神に捧げ、
その末の息子に油を注いだだけでした。サムエルは剣も盾も槍も弓もありませんでした。
 彼は人一人傷つけることなく、サウル王を王から引きずり降ろし、新しい王をイスラエルに立てたのです。

 一人だからなにも出来ないのではありません。たった一人だからこそ出来ることがあるのです。
神に祈り、神に聴き、従うということはたった一人にならなければ出来ないことなのです。
 神はエッサイの息子たちの中で、末の息子のダビデに油を注ぐようにサムエルに命じます。
人間の社会的家族的序列で言うならば、普通は長男に油が注がれるはずですが、神は末の息子であるダビデを選びました。
神は、その人の心をごらんになる方だと言われています。

 私たちの心が神に向いているか否かが問われています。
自分が他人に一生懸命に世話をしたり、奉仕したりしたことが、時として、他人に悪く思われたり、ねたみをかったり、
あるいは単に感謝がされないということで、傷ついたり私たちはします。
この時、私たちは「あんなにしてあげたのに」とか思いますが、
そのとき、反省すべきは、私たち自身の心がどこに向いていたのかということです。

 人に感謝されることではなく、私たちは神の御心を行うことのために生きています。
私たちの生きることの意味は、神の御心に従うことにあります。神様が喜んでくださることを私たちは求めるのです。
 それは「それじゃあ何が楽しくて生きているのだろう」ということを意味するのではなくて、
「生きていてよかった」という人生の喜びの根源をもたらすことなのです。
人格の成長が顕著になる瞬間であり、そこにこそ人生の平安が生まれるのです。
それは私たちが神に向かって永遠の旅路を出発した証です。

13:サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。
 その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。
 サムエルは立ってラマに帰った。


 神からの使命を果たしたサムエルは、何の感謝の言葉も謝礼も受けることなく、ただラマに帰って行きます。
 私たちもなすべきことをなし、立ち去る者でありたいと願います。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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