
水戸中央教会 説教 2005年11月6日
永眠者記念礼拝
「神の民の選び」
マルコによる福音書12章18〜27節
18:復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
19:「先生、モーセはわたしたちのために書いています。
『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、
その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
20:ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。
21:次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。
22:こうして、七人とも跡継ぎを残しませんんでした。最後にその女も死にました。
23:復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。
七人ともその女を妻にしたのです。」
24:イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、
そんな思い違いをしているのではないか。
25:死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
26:死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、
神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
27:神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
私たちは、今日、感謝するためにここに集いました。
神様がこの地で語り始めた永遠の御言葉に感謝するために、
そしてその御言葉を聞いて、感謝をもって生涯を歩んだ人々と共に生きることができたことへの
感謝を神に表すために今日、私たちは教会に集いました。
私たちはただ単に懐かしく過去を思い起こし、追憶に浸るために集まっているのではありません。
私たちは、この兄弟姉妹を通して私たち自身の未来を確認するために集まっています。
それはただ死をもって終わってしまうこの世の命ではなくて、
イエス・キリストがご自身の命を捧げてくださって、
信じる私たちに与えられた永遠の命という揺るぎない未来です。死さえも過ぎ去るのです。
私たちのこの世の命は死によって過ぎ去りますが、神の大いなる御力の前では、
その死さえも過ぎ去るのです。なぜならば神こそが命を作り出し、与えてくださる方だからです。
私たちはまだ永遠の命に与っていません。
またイエス・キリストがおっしゃった神の国をまだ見ていません。
私たちは待ち望んでいます。私たちは永遠の命の与えられる時を待ち望んでいます。
神の国がこの地上にやってくるのを待ち望んでいます。
そして、待ち望んでいるのは、私たちだけではありません。
この今は死によって眠っている私たちの兄弟姉妹もまた、
その眠りの中で、神の国を待ち望み、永遠の命を待ち望み、復活の時を待ち望んでいるのです。
神を待ち望む者たちとして、私たちの眠りについている兄弟姉妹も私たち自身も生きているのです。
12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、
神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。
このイエス様の御言葉が語っているように、同じ神を信じる私たちは、
今この世にいない者もいる私たちも共に生きているのです。
この世の目では、私たちは死と生によって分かたれているように見えます。
しかし、神の目には、私たち生きている者も死んだ者も共に生きているのです。
なぜならば神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だからです。
私たちのあやふやでおぼろげな記憶の中にこの兄弟姉妹が生きているというのではありません。
私たちの変わりやすく、狭い心の中に生きているというのではないのです。
この兄弟姉妹と私たちは共に神の前に生きているのです。
この兄弟姉妹と私たちは同じ神を信じているからです。
私たちはイエス・キリストによって同じ神を信じる者とされた者たちです。
この世に生きていいようが死んでいようが、彼らも私たちも、神を待ち望む者には何の違いもないのです。
神の前に私たちは同じように立たされているのです。
彼らは確かに私たちと共にいるのです。なぜならば神様は私たちと共にいてくださるからです。
私たちは死者の霊を慰めるためにここにいるのではありません。
私たちは彼らと共に祈るためにここにいるのです。
神の御国が一刻も早く来るように共に祈るためにここにいるのです。
私たちがこの世の命から解放され、彼らがこの世の死から解放されるために私たちは神の国を待ち望み、
祈るのです。
私たちは来るべき未来への備えをしなければなりません。
この世の死をもって全てが無に帰してしまうこの世のためではなく、
来るべき神の御国のための備えをするために私たちは生きているのであり、
そのために私たちは死ぬのです。
永遠の命は、死んでしまったら与えられないものではありません。
死んだものを復活させる力です。
イエス・キリストによって切り開かれた未来に向かって私たちは共に歩み続けましょう。
この未来に向かってアブラハムもまた旅立ち、眠りについています。
そして彼もまた私たちと共に眠りの中にあって神の御国を待ち望んでいるのです。
キリスト教会は2000年に亘ってこの歩みを続けてきました。
私たちもその旅する人々の一行に加わっているのです。
イエス・キリストを信じることは旅立ちを意味します。
確かな約束された素晴らしい未来への旅立ちを意味します。
その未来は確実にやってくるのです。
神の約束通りアブラハムの子孫が空の星のようになっているように
イエス様が教えてくださった神の国は必ずやってくるのです。
そして私たちはそこにたどり着くことができるのです。
イエス・キリストを信じる私たちは、神の御国にたどり着くのですが、
私たちはそのことを意識して生きているでしょうか。
あたかも神の御国に決してたどり着くまいと
自分の王国をこの世に少しでも広げようとしていないでしょうか。
神の御心が私たちに実現し、私たちが神の御心に従うことを求め、それを行っているでしょうか。
自分の望みに神を従わせようと無駄な努力を続けていないでしょうか。
神の栄光ではなく、自分の栄光が現れるように巧みな嘘を突き続けているのではないでしょうか。
私たちのこの世の生活が虚偽を偽りに満ちたものだという意識があるでしょうか。
しかし、神は偽ることがありません。私たちは虚偽に満ちていますが、神は真実な方です。
イエス・キリストの復活において神様の真実さが明らかとなりました。
私たち一人一人もまた今は天に召されている兄弟姉妹も神の真実さの証人です。
私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、それぞれがそれぞれの仕方において、
より謙虚な者へと変えられてきました。
私たちは偽る者ですが、神様の光によって私たちは真実な者へと変えられているのです。
その歩みはつたないかもしれませんし、人と比べるならば、劣っているかも知れません。
しかし、歩んでいる方向は同じなのです。イエス・キリストによって私たちの全てはすでに変えられているのです。
平安の内を私たちは歩むのです。
イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは平安の内を歩んでいるのです。
復活されたイエス様が弟子たちに現れたとき「平安あれ」とおっしゃいました。
イエス・キリストを信じるということは、私たちが平安の源と共に生きいていることを意味しています。
私たちには平安が与えられているのです。私たちは救われているのです。
私たちが平安の中にあるのと同じように、
世を去った兄弟姉妹もまたイエス・キリストの平安と救いの御業の中にあります。
病や様々なことで苦しんだ方もいらっしゃるでしょう。
死んでようやく平安になったと思うようなこともあるかも知れません。
しかし、イエス・キリストが与えてくださる平安と救いはその病や苦しみをも
含んで包んでいてくださるのです。
イエス・キリストを信じるならば、今日、今ここで私たちは救われます。
あなたが何かをしなければいけないのではないのです。神様がしてくださったことを感謝するのです。
ここに死者の霊を弔い、慰めなければ死者が浮かばれないというのではありません。
わたしたちが彼らのために何かをすることなどできはしません。神様が全てをなしてくださるのです。
世を去った兄弟姉妹と共に神のなしてくださった御業のすばらしさを感謝するために私たちはここにいるのです。
私たちの生と死を越えて、永遠の命を与えられる全能の愛に満ちた神様の御名を褒め称えましょう。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988