水戸中央教会説教                      2005年10月30日

「占いの禁止について」
マルコによる福音書7章14〜23節


 14:それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。
 「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
15:外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、
 人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
+17:イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
18:イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分りが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、
 人を汚すことができないことが分からないのか。
19:それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。
 こうして、すべての食べ物は清められる。」
20:更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
21:中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
22:姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
23:これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

 先日、女性部の修養会で、「聖書は占いを禁止している」と言いましたら、
「でも、サマリヤの女と出会われたイエス様は、
サマリヤの女がしてきたことを全て言い当てて占い師みたいなことをなさっているじゃないですか。」
ということを言われました。
 誤解のないようにお願いしたいのですが、聖書は明確に40回ほど、
「占いの禁止」を命じています。 
       
レビ記
19:26 あなたたちは血を含んだ肉を食べてはならない。占いや呪術を行ってはならない。

 このように占いや呪術の禁止が繰り返し言われています。
そして占いをする者を処刑せよと命じているほどです。

申命記
13:6 「その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。
 彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、
 奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、
 主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。
 あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」

 
 同様の箇所は、他にもたくさんあります。

 「イエス様もサマリヤの女の過去を占い師のように言い当てているではないですか。」
という反論は、まさにサマリヤの女自身の言葉によって反論されます。
問題のサマリヤの女が出てくる
ヨハネ福音書4章には、次のようにあります。

4:28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
4:29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。
 もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」

 ここでサマリヤの女自身、
「私の行ったことをすべて、言い当てた人がいます。この方は偉大な占い師です。」
とは決して言っていません。
 すべてを知っている神の救い主である「メシア」かも知れないと言っているのです。
 
 占い師とは聖書において全く当てにならないものの象徴です。
旧約時代においては、この占いを伴う宗教は、
子供を焼いて神様の供え物とするような人身御供を行っていました。
ですから、ここで占いを行う者を処刑せよという厳しい命令が出ていると理解されます。
正当な理由があって聖書は占いの禁止を訴えているのです。

 最近は特に占いがブームです。みな本気にはしていない、
遊びであるとどこか思っていて目くじらを立てることはないのではないかと思うかも知れませんが、
この些細なことが人生を決してしまうような悲劇をもたらすのです。
私たちの信仰をなし崩しにしてしまうのです。

 スペースシャトルは、わずかの小さな耐熱タイルがはがれ落ちたその隙間から大きな事故を引き起こし、
粉々になって墜落しました。
小さなことだからといって、見逃しておいてもいいということにはならないのです。

 聖書は占いの禁止を訴え続けてきました。
それは、とりもなおさず、私たちの人生の尊さと素晴らしさを訴えてきたのです。
「あなたの人生を詐欺師の思うようにさせてはならない。」
と、訴え戒め続けてきたのです。

 イエス様は本日の聖書の御言葉においておっしゃっています。
7:20「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、
 悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 姦淫、貪欲、
 悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、
 人を汚すのである。」 

 今,世間では職業的占い師がとても人気でもてはやされていますが、
彼らは、本日の聖書の言葉、
「みだらな行い、盗み、殺意、 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」
の具体例です。占いにはこの悪の全てが含まれているのです。決して信じてはなりません。
 イエス・キリストを信じる信仰がみなさんに与えられているならば、
この職業的占い師が忌み嫌うべき詐欺師であるという判断ができるはずです。

 イエス・キリストを信じるということは、占いを信じないということです。
非常に多くの宗教と呼ばれるものが占いを取り入れているために宗教を信じる信仰と、
占いを信じる信仰とがごちゃ混ぜになっています。
 占いを信じることも信仰の一種ではないかと誤解している方もいますが、
キリスト教は決してそうではありません。
 キリスト教は一神教です。そして「一神教は非寛容だ」と日本ではよく批判されます。
最近、ベストセラーになった東大の某教授も一神教のキリスト教を批判しているそうです。
 しかし、一神教の信仰の最も具体的な実践は、占いを信じないという理性なのです。
 多神教の世界観には、占いという要素がなぜかつきまといます。
神社には、今もっておみくじがあります。おみくじなどというどう考えてもいい加減きわまりないものが
今もまかり通る宗教とは一体何なのでしょうか?
このいい加減なものを許容する宗教を日本の伝統とする私たちの国民性は一体何なのでしょうか。

 「神は愛である」

と、聖書は教えています。そして、私たちがこの世にあって生きていることの意味は、
いかに人を愛することができるかということに尽きます。
 神は、既に私たちを愛して下さり、御子イエス・キリストを通して、
私たちの人生の意味を明らかにして下さいました。

 占いによって、私たちは自分たちの人生の運勢を良くしようと思います。
なにか人生の問題があると占いによって、その問題が解決しないだろうかと思うわけです。
 しかし、イエス・キリストの人生をご覧下さい。
この方は素晴らしい運勢に恵まれた方でしょうか。占いの観点から言うならば、最悪の運勢でしょう。
 人々を奇跡の業によって癒し、望みを失った人々に慰めと励ましを与えながら、
何の金儲けをしたわけでもなければ、王や大臣になった訳でもありません。
最後は弟子に裏切られて十字架につけられて殺されます。

 主イエス・キリストの人生は、私たちが占いのような当てにならないもの、
何の根拠もない嘘を信じてまで、手に入れようとするこの世の幸福が何の意味もないことを教えています。
 私たちの人生の価値は、あなたがどんな運勢でその運勢を生かして、
成し遂げたなにかによって決まるのではないと、聖書は教えています。
 あなたが、どのように人を愛し、誠実に生きたかによって人生の価値が決まるのだと聖書は訴えているのです。

 神は、私たちがどのような状態にあっても愛して下さっているのです。
愛は運勢では左右されないものです。運に見放されたということは、
神に見放されたということとは全く違うのです。

 私たちはいわゆる不運なことに見舞われます。それは、私たちの信仰と人格を磨く恵みです。
そして、その不運はむしろ、私たちが悪の中で腐り果ててしまうのを防ぐのです。
 人は名誉と富を手に入れると腐りやすいものです。
どんなに多くの権力者や著名人、富裕な人々が
「みだらな行い、盗み、殺意、 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」
の泥沼に沈んでいったことでしょうか。

 私たちを襲うどのような不運も、私たちの永遠の命を奪うことはできません。
永遠の命は、私たちの心の中の悪い思いによって失われてしまうのです。
 イエス・キリストを信じる信仰は、私たち自身の心の状態を明らかにします。
私たちの心の中に悪い思いがたくさんあることに信仰は気づかせてくれます。
 信仰は、私たちに、自分には誇るような良いものがなにもないことを分からせて下さいます。

 それに対して占いは、私たちを盲目にします。
私の内に原因があるのではなくて、私の前世だとか、私が身につけているものとか、
先祖のたたりとか私の血液型や生まれた日にちが、
私の人生を決定する大きな要素になっていると占いは教えます。
そのことによって、私たちは見据えなければならない私たちの心の現実から注意を逸らされてしまうのです。
 占い師は、ほんの少しばかりの人生の教訓を持ち出して、
あたかも自分が正しいことを教えているかのようなふりをします。
それは占い師もいいところがあるということを意味するのではなくて、
占い師がいかに巧妙な詐欺師であるかということを意味しているのです。 

7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。
 「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、
 人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」

 私の先祖がどのような悪を行おうと、私の前世がいかに呪われたものであろうと、
私の生まれた日がどんなに不幸の星のもとに生まれていようと、
あるいは運気が最悪であろうとそのようなものが私を汚すのではないと
イエス様はおっしゃっているのです。
 そうではなくて、私が自分自身の心の醜さを見つめることができるか、
それを知っているかが問題なのです。

 イエス・キリストによって救われた証は、私たちが自分の醜さを知ることができることです。
だから人の長所が見えるのであり、謙虚になれるのです。
 自分の良さしか見えないとき、私たちは他人の欠点しか見えません。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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