水戸中央教会 説教   2005年10月16日 

「賢さと愚かさの分かれ道」

マタイによる福音書25章1〜13節

 1:「そこで、天の国は次のようにたとえられる。
 十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
2:そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
3:愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
4:賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
5:ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
6:真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
7:そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
8:愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
9:賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
10:愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、
 花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
11:その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
12:しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
13:だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。』

 1:「そこで、天の国は次のようにたとえられる。
 十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
2:そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
3:愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
4:賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。


 ともし火とは何を意味するのでしょうか。また油の用意とは一体何を意味するのでしょうか。
ともし火とは「信仰」であり、油とは「行い」です。

 新約聖書 ヤコブの手紙には次のようにあります。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

 しかし、「行い」と言いますと、次の聖書の箇所がみなさんの心の中に浮かぶでしょう。
新約聖書 ローマ人への手紙
3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

 このローマ人への手紙における聖書の言葉は、人間が天国に入ることが出来るのは、
律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによるのだという意味です。
 ヤコブの手紙はローマ人への手紙の言葉と矛盾するように見えますが、決してそのようなことはありません。
それは「行い」の内容によるのです。イエス・キリストを信じるがゆえに行う「行い」というものがあるのです。
それは「赦し」に他なりません。
 イエス・キリストによって罪赦された者が、他人が自分になす罪を赦すことが出来ないならば、
それは意味がないと言われているのです。

 私たちが毎日唱える「主の祈り」には、次のようにあります。

「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」

 「主の祈り」においては、私たちが他人の罪を赦すことが、自分が赦される前提条件にさえなっています。

 「牧師さんは、『赦せ、赦せ』というけれど、その赦すということが出来ないから困っているのです。
イエス・キリストはその赦せない私たちをも含めて赦してくださっているのではないですか。
神なるイエス様の愛は、もっと大きなものなのではないでしょうか。」
と言われることがあります。
そして、「赦さなくても、イエス・キリストを信じるならば、それでいいのだ」という考えがあります。
そして、今日の聖書の御言葉は、そのような考えは愚かだと言っているのです。

25:12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。


 私は、牧師という職業の関係で、いくつかの外国語を学ばねばなりませんでした。
 私は外国語の拾得はどうも苦手で、高校では英語が出来なくて、大学は国文科にしか行くことが出来ませんでした。
「単語を覚えるいい方法はないかなぁ」と友人に相談することがしばしばでした。
友人たちは、カードにするといいとか、単語帳をこんな風につくるといいとか教えてくれました。
「でもそんなに面倒なことをしなくても、覚えられる方法はないのか。」と言いますと、
友人たちは「それはどうしようもない」と答えました。しかし、私はこのことがなかなか分かりませんでした。
 勉強しないで語学が出来るようになる方法なんていうのはないということに気がつくのには随分、
時間がかかりました。
 勉強の仕方には、色々な方法があるでしょうが、勉強しないで勉強が出来るようにはなりません。
読まない本の内容を言うことは出来ません。

 赦しと信仰も同じです。赦しのない信仰には意味がないのです。
「赦さなくても、信仰できるようにならないか」という問いは、
「単語を覚えなくても、語学が出来るようにならないか」という私の学生時代の願いと同じです。それは愚かなことなのです。
 イエス様は大変親切に警告されています。赦すと言うことがどんなに大切なことであるかを教えてくださっているのです。

「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。」

というイエス様の有名な言葉があります。同じマタイによる福音書7章7節です。
 「赦せ、赦せというけれど、そんなこと出来ませんよ」と、私たちが思うとき、私たちは一体何を求めているのでしょうか?
私たちは、一体何を求めるべきかが分かっているでしょうか?
 求めるべきは、「私が人を赦すことが出来るようになりますように」ということなのです。
 赦すことが出来なければ、私たちはそれを祈り求めるべきなのです。
「赦すことが出来るように助けてください」と神に祈るべきなのです。
 赦すということは、大変に難しいものです。
しかし、だからといって赦しを求めなくてもいいということではありません。
そうではなくて、赦すこと、赦すことの出来る心こそ、
私たちがこの世にあって求めるべきものであり、探すべきものなのです。
 
「牧師さんは、『赦せ、赦せ』というけれど、その赦すということが出来ないから困っているのです。
イエス・キリストはその赦せない私たちをも含めて赦してくださっているのではないですか。
神なるイエス様の愛は、もっと大きなものなのではないでしょうか。」
 この言葉は、自分で自分は馬鹿ですと宣言しているようなものです。
 信仰は、なよなよした気弱なものではありません。信仰は、壮絶な戦いです。
勇敢な者のみが勝利を得ることが出来ます。
 私たちは、自分たちに罪を犯す者を赦すことが出来る心を獲得しなければなりません。
それはこの世の目には、愚かで馬鹿馬鹿しいことです。

 5人の賢い乙女たちとは、この世の目には愚かな人々です。何の力もない人々です。
そして愚かな乙女たちとは、この世の目には賢い人々です。
彼らは家柄もよく、能力があり、地位もあり、財産もある人々です。
彼らは、この世で褒め称えられるだけの富や地位を得た人々です。
人々に誇ることが出来るような人生を送った方々です。
彼らはこの世の人々の賞賛を得るようなことに力を尽くしてきたのですから、予備の油はありませんでした。
彼女たちはこの世の栄光だけを求めた人々の象徴です。

 いつ私たちは予備の油を準備しているのでしょうか。
それは、たとえば、私たちが善意でなしたことが誤解されて、非難されるとき、相手に口答えするのではなくて、
「天の神様はご存じなのだから、心配することはない。」と思うとき、
私たちは予備の油を蓄えるのです。それは既に「敵を愛する」というイエス様の御言葉を行っているときなのです。

 人を赦すことによって、私たちの内に形成されてくる確かなものがあります。
その確かさこそが予備の油です。
 信仰は、なにか不確実なあやふやで訳の分からないものではありません。
それは、見えるものよりも確かな心の現実です。
それは、あなたを変え、全く新しいものに作り直します。
あなたは全く新しく創造されたものとなるのです。

 過去に経験した悲しみや屈辱や苦難を決して忘れず、それをバネにして、
この世でのいわゆる出世を成し遂げる人々がいます。
しかし、それは空しい結果を生み出します。
 恨みや劣等感は決してよいものを生み出すことはありません。

7:13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
7:14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

 恨みや劣等感が原動力となって、私たちが生きるときそれは滅びに通じる門を歩んでいるのです。
それはよいものを生み出しません。
 先日ダイエーの創業者であった何とかさんという方が亡くなりました。
彼は戦争でのネガティブな体験が原動力となってあの大企業を立て上げましたが、
亡くなったときは家族も離散し、帰る家もない状態だったということです。

 命に至る門は、狭く、その道も細いとイエス様は教えてくださいました。
それは、赦す心を求める道だからです。
 私たちを傷つけた人々が、私たちの記憶の中にはたくさんいるでしょう。
「あの人のおかげで、こんな目に遭った。」「私の人生が狂ってしまったのは、あいつのおかげだ。」
その一人一人の顔を、私たちは今思い浮かべましょう。
 そして祈りましょう。
「主イエス様、私は、ひどい仕打ちをしたあの人々を心から赦します。彼らを心から祝福します。」
 この時、私たちは新たな人生に向かって出発するのです。私たちは未来に向かって生きることを始めるのです。
あの「御主人様、御主人様、開けてください」と愚かな乙女たちが言っている扉が開かれるのです。
それは、私たちの未来が開かれるときです。
 私たちは過去を引きずって生きるのではありません。永遠の未来に向かって生きているのです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
              Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会
              Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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