
水戸中央教会 説教 2003年1月19日
伝道師 山本英美子
「イエスとその弟子」
ルカによる福音書5章1節−11節
1:イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
2:イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
3:そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。
そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
4:話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5:シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
6:そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
7:そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。
彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
8:これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
9:とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
10:シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。
すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
11:そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
今日の聖書個所はイエス様がペトロをはじめとする弟子達を召されたところです。
先週イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたところを学びましたが、
その後イエス様は公の働きを始められました。
そして、神の国について宣べ伝え、病人を癒したり、悪霊を追い出したりなさいました。
その結果、イエス様の人気は大いに高まり、
イエス様の周りにはいつも多くの群衆が押し寄せてくるようになっていました。
1節を見ますと、この時もゲネサレト湖畔で群集が神の言を聞こうとしてイエス様の周りに押し寄せています。
ゲネサレト湖とはガリラヤの海ともテベリヤ湖とも呼ばれますが、
いわゆるガリラヤ湖のことです。
イエス様はこのガリラヤ湖畔で、漁師であったシモン・ペトロの舟に乗り込み、
彼に頼んで岸から少し漕ぎ出させ、舟の中から座って群衆に教えられました。
そうしなければ、イエス様は群集に押しつぶされてしまいそうな状態だったのでしょう。
この時イエス様はシモン・ペトロが舟からおりて網を洗っているところを見て彼に船を出すように頼んでいますが、
イエス様とペトロはお互いについてどれほど知っていたのでしょうか。
ルカによる福音書4:38−39を見ると、イエス様がカペナウムの町の会堂を出て、
ペトロの家に行き、彼のしゅうとめの高熱を癒された出来事が記されています。
このことからイエス様とペトロがすでに顔見知りであり、
しかもペトロとその家族はこの出来事によりイエス様に心から感謝したであろうと推察されます。
また、これ以前にペトロの兄弟アンデレがイエス様のところにペトロを連れて行き、
二人を初めて引き合わせた時の出来事が、ヨハネによる福音書1章41節−42節に書かれています。
この時シモンはイエス様によってペトロという新しい名前を与えられています。
このようにイエス様とペトロはすでに知り合っていたので、
イエス様が彼の舟を借りて群衆に御言葉を教えたのはごく自然なことでした。
また、ペトロにとっては大人気のイエス様を自分の舟にお乗せすることは、
とても名誉な嬉しい出来事であったと考えられます。
ペトロは得意満面で自分の舟をイエス様のために漕ぎ出したことでしょう。
しかし問題はその後にありました。
イエス様は群集への話が終わると、ペトロに対しこのように言ったのです。
「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい。」
なぜこれが問題になるのかという理由はいくつかあります。
まずイエス様は大工であって、漁師ではないのに、
そのイエス様がプロの漁師のペトロに漁について指示を出しているということです。
誰でも自分の専門分野について、人からあれこれ言われるのはいやなものですし、プライドも傷つけられます。
それに加え、ペトロ自身が述べている理由として、
彼らが夜通し働いたのに、何も取れなかったという事実があります。
その上、もう時間は漁に適した夜ではなく、昼になっていた訳ですから、なおのこと魚が取れないだろうと思われました。
ペトロのプロの漁師としての経験からしても、常識からしても、状況から見ても、
このとき漁をしても魚は取れるはずが無いのです。
おまけに、夜中働いた結果、ペトロたちはひどく疲れていたはずです。
今から沖へ漕ぎ出して漁をしなさいというイエス様の言葉は、彼らにとっては、ばかばかしい命令であったのです。
人によっては怒り出してしまうような内容でした。
しかし、ペトロの対応は違っていました。ペトロはこのように答えたのです。
「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。
しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」(ルカ5章5節)
この答えの中には、他でもないイエス様、あなたのお言葉ですから、
そのとおりにしてみましょうというペトロのイエス様への信仰が見られます。
ペトロはそれまでにイエス様の教えを聞き、また、イエス様が自分の姑を含めた多くの病人を癒し、
また、悪霊につかれた人々を解放してきたのを見てきました。
このようなすばらしい働きをなさるイエス様だからこそ、今、漁をせよと言うにも何か理由があるのだろうと考えたのです。
これが他の人の言葉だったら、夜中働いて疲れ果てているペトロが従ったとは考えられません。
ですからペトロはこのとき、自分のプロの漁師としての経験やプライドや状況判断を超えて、
イエス様のお言葉を優先させたのです。
このように、どんなに厳しい命令であっても、常識はずれの教えであっても、
それが神の言葉であれば、それに従うのが信仰です。
つまり時にクリスチャンは常識はずれにならなければならないのです。
なぜなら、神様は私たちの小さな常識の枠に納まりきる方ではないからです。
しかし、どんなに人間の目からおかしく見えようとも神の言葉に従う者には、大きな報いが必ずあるのです。
ペトロとその仲間達の場合はどうだったでしょうか。それは彼らが今まで見たことも無いほどの大漁でした。
余りにもたくさんの魚がかかって、網は破れそうになるし、舟は沈みそうになりました。
ペトロ達は、それを見て震え上がりました。
今までガリラヤ湖を自分の庭のようにして魚を取りつづけてきた彼らだからこそ、これが尋常でないことがわかったのです。
シモン・ペトロは、思わずイエスのひざもとにひれ伏して言いました。
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。」(ルカ5章8節)
ペトロは、このお方が、ただの人間ではなく、神的なお方であると直感したのです。
人間が真に神の前に立たされた時に知ることは、
自分がいかに罪深く、神の前に立ち得ないものかということです。
旧約時代の預言者イザヤも幻の中に神様とその御座を見たとき、このように叫んでいます。
「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。
わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、
わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから。」(イザヤ6:5)
このイザヤと同じように、シモン・ペトロとその仲間達はイエス様の前で恐れてひざまずきました。
すると、イエス様はペトロに言われました。
「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ。」(ルカ5章10節)
このイエス様のお言葉は、彼らの人生を一変させることになりました。
この後彼らは舟を陸に引き上げると、いっさいを捨ててイエス様に従う人生を歩み始めたのです。(ルカ5章11節)
今まで、イエス様の事を知っており、時々はその教えを聞いていた彼らが、
これからはすべてを捨ててイエス様について行くようになりました。
もう彼らには、大漁の魚も目に入らなかったようです。
この魚を売ったらかなりの金額になったかもしれませんが、彼らはそんな事などもうどうでもよかったのです。
その時の彼らにとって一番大切だったのは、このイエスというお方に弟子としてしっかりついていくことだけでした。
そしてそれは、今までとは違うすばらしい恵みの人生の始まりでもありました。
シモン・ペトロとその仲間達がイエス様の初めの弟子となる特権に預かった秘訣は何だったでしょうか。
それは、何よりも神の言葉を優先させたところにあります。
自分の経験よりも、自分の知識や常識よりも、自分のプライドよりも、目に見える状況よりも、他の何よりも、
神の御言葉にいつも聞き従うのが、信仰者のあるべき姿勢です。
それがノンクリスチャンの目には時にばかばかしい、愚かな、突拍子も無い行動に映ったとしても、
私たちは神に従い、その祝福を得るチャンスを逃してはなりません。
シモン・ペトロは、今もう一度漁をせよという小さなイエス様の命令に従った結果、大きな祝福を手にしました。
神様が私たちに与えられる小さな命令に一つ一つ従うことが、より大きな恵みの世界への入り口となるのです。
これは、ある姉妹から聞いた証しです。
その方をAさんとしますと、Aさんは同じ教会のBさんとふとしたきっかけで気まずくなってしまいました。
するとBさんはAさんのことを一方的に人前で責めたり、色々な悪口を言うようになりました。
その結果Aさんは教会内のある人たちから誤解されるようになりました。
そのことについてAさんは自分からは何もまわりの人に弁明したりはしませんでしたが、
その心はひどく傷ついていました。
その上、悪口を言っているBさんの生活が神様の祝福に溢れて、すべてが順調に進んでいるように見えたので、
Aさんは自分が神様に見捨てられたかのようにさえ感じるようになりました。
Bさんが近く結婚するという話を聞いたときも、
「祝福してあげなければ」と思いつつも、Aさんの心は決して穏やかではありませんでした。
しかし、Aさんが神様の御前に静かに祈っていると、
神様はAさんの心がいかにBさんに対する憎しみと赦さない罪で汚れてしまっているかを示されました。
そして、Aさんの心にこう語りかけました。
「私がBさんを祝福しようとしているのに、なぜおまえは彼女を呪うのか。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。(マタイ5章44節)」
そのとき、Aさんははっとして自分の罪を泣いて神様に悔い改めました。
するとそれまで心にあった重い鉛のようなものが取り除かれ、不思議な平安がAさんの心を満たしました。
それからAさんはBさんを心から祝福する祈りを毎日捧げるようになりました。
すると、AさんとBさんの関係はまもなく修復しただけでなく、
Aさんもいろいろな面で神様の目に見えた祝福を頂くようになりました。
そしてAさんも間もなくすばらしいクリスチャンの兄弟と結婚することになったそうです。
「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、
神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた。」(Iコリント2:9)
お祈りいたしましょう。
天のお父様、わたしたちがあなたの御言葉に従うことで、
私たちの想像をはるかに越えたすばらしいあなたの恵みの世界へ私たちも一歩踏み出すことができますように、
どうぞ助けてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988