水戸中央教会
2007年クリスマス・キャンドルサービス礼拝説教 2007年12月24日
マタイによる福音書1章1〜25節
1:アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
2:アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、
3:ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、
4:アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、
5:サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、
6:エッサイはダビデ王をもうけた。
ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、
7:ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、
8:アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、
9:ウジヤはイオタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、
10:ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、
11:ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
12:バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、
13:ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、
14:アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、
15:エリウドはエルアザルを、エルアザルはマタンを、マタンはヤコブを、
16:ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
17:こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、
ダビデからバビロンへの移住まで十四代である。
18:イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。
母マリアヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、
聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
19:夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、
ひそかに縁を切ろうと決心した。
20:このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
21:マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
22:このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23:「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
24:ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
25:男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
クリスマスは大きな喜びの日です。世界中の人々がこの日をお祝いします。
このわたしたちの日本でクリスマスがお祝いされるようになったのは、この100年くらいのことですが、
今では、日本の年中行事のなかで、最大級のお祭りの一つになっていると言ってもいいくらいです。
イエス・キリストを信じるクリスチャンも、信じないノン・クリスチャンも、
このクリスマスは共に喜び祝います。
わたしも普通の神を信じない日本の家庭に育ちましたが、
子どもの頃、小さなクリスマス・ツリーを飾るのがとても楽しかったことを覚えています。
数年前、わたしの先輩のA牧師の息子B君が、東京の学校が冬休みに入り、
クリスマスを家族で一緒に過ごすために、
家にバイクで帰って来る途中で右折車にはねられて即死しました。
12月23日で、クリスマス・イブの前日でした。若干二十歳でした。
この息子さんは小中学生の頃に不登校になったりして、
A牧師さんはこのお子さんを育てるために並々ならないご苦労をされていました。
ようやくB君は自分のやりたいことを見つけ、
その学校へ熱心に通って勉強に励んでいる矢先の出来事でした。
このA牧師夫妻は今も大きな悲しみの中にあります。
二年ほど前、わたしの神学校の同級生のC牧師が、
12月24日のクリスマス・イブに最愛の奥さんを交通事故で亡くしました。
スーパーマーケットへ、クリスマスの準備のために、
自転車で買い物に行った帰りに車にひかれたということでした。
わたしはしばらく経ってからこの事故のことを人づてに聞きました。
C牧師は、事故が起こったとき、頭の中が真っ白になってしまったと言っていました。
一昨年1月、水戸市新荘にあります、わたしたちと同じ日本基督教団の水戸教会牧師、
白神章道牧師が直腸癌で天に召されました。
白神先生が天に召される直前、最後の力を振り絞ってクリスマス・イブの礼拝で説教をされました。
そのお話しの最後は、白神牧師の同僚の牧師の赤ちゃんがクリスマス・イブの日に亡くなり、
クリスマスの日に葬儀をしたということでした。
赤ちゃんの小さな棺を抱えて、クリスマス・イルミネーションで、
きれいに彩られた町を行く葬儀の列の中で、
言いようのない寂しさと悲しさを感じたとおっしゃっていました。
クリスマスで皆が楽しくしているときに、悲嘆の中にある人々があることを忘れないで欲しいと、
白神牧師はその最後のクリスマス説教でおっしゃったそうです。
彼自身もそれからおよそ1ヶ月後の雪の降りしきる日、天に召されました。
クリスマスは闇に輝く光です。それは人生を覆い尽くす死の悲しみの中に輝く光です。
クリスマスの喜びは、実は先ほどお話ししました、
言いようのない悲しみの中にある人々に与えられた希望の光であり、
この言いようのない悲しみが喜びに変わる日です。
クリスマスのお祝いは、何か今、元気がよくて調子がよく、
人生全てが上手くいっている人々が、喜びに満ちてお祝いするだけの喜びではありません。
「こんな不幸を体験して、わたしはもう誰からも慰められたくない。
一人にしておいてくれ。ほっといて欲しい。」
と願うような人々の心の中に灯される希望の光がクリスマスです。
そして、そのような悲しみのどん底にある人々と共に分かち合う喜びの時がクリスマスです。
この世の人生の楽しさを謳歌するためにクリスマスがあるのではありません。
そうではなくて、この過ぎ去り行く世界のただ中で、
永遠の存在を発見する喜びと平安のためにクリスマスはあります。
およそ2000年前、神の子、イエス・キリストはこの地上に生まれました。
彼は奇跡によって病人を癒し、死人をも蘇らせ、嵐も彼の言葉に従いました。
そして、彼は罪なくして捕らえられ、十字架にかけられて殺されました。
しかし、三日目に墓の中からよみがえり天に昇っていったと聖書は証言しています。
そして、イエス・キリストを信じる者は死んで後、
復活し、神の子として永遠に生きると聖書は言っています。
先ほど、マタイ福音書の最初の部分が司会者によって朗読されました。
聞いたこともないような外国人の名前が羅列されていて、
何のことやらさっぱり分からないと思った人々も沢山いらっしゃるでしょう。
これは、イエス・キリストが、2000年前にこの世に生まれるその前に、
神様を信じて生きた人々の名前です。
神を信じて生きたこれらの人々は多くの喜びを与えられ、また悲しみの中に神の慰めを見いだし、
力強く生きてきました。
時として間違いを犯し、神から見捨てられ、絶望の淵に沈んだことも度々でした。
アブラハムは神が選びだした最初の人と言うことができます。
彼は、神の祝福の約束の言葉に従って、父の家を離れて、
妻と自分の全財産をもって神の示す地を目指して流浪の旅に出ます。
その人生は豊かな恵みの内にありましたが、決して平坦なものではありませんでした。
そして、このアブラハムからダビデ王という比類のない王が生まれ、イスラエルの国を治めます。
しかし、その後、イスラエルの民は神を離れ、ないがしろにするようになり、
神の怒りによって国は滅ぼされ、バビロンという強大な国の捕虜となって苦しい生活を強いられます。
その苦しみの中でイスラエルの民は、反省して神様に立ち返ります。
神はこれを許して、全く武力を用いることなくイスラエルの国を再建させます。
それは奇跡としか言いようのない出来事でした。
それから再び多くの年月が流れて、イエス・キリストが誕生します。
イエス・キリストから新しい時代が始まります。
イエス・キリストは、この最初の神を信じて生きたアブラハムの時から、
待ち望まれていた人でした。
神ご自身が、わたしたち人間と共に生きてくださり、
わたしたちを死の滅びから救い出して下さる世の救世主が、イエス・キリストです。
この長い系図が示しているように、そしてこの系図に名前が挙げられている人は全て死にました。
死の悲しみの連鎖を断ち切るのがイエス・キリストです。
わたしたち生身の肉体をもった人間はおぎゃと生まれたときから、死に向かって生きています。
「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」
という一休禅師の歌がありますが、わたしたちの成長は確実に死へと向かって進んでいます。
イエス・キリストは神の子として生まれます。
母マリアは、婚約者ヨセフと一緒になる前に、聖霊によって身ごもったと聖書は証言しています。
イエス・キリストは神の子であり、彼において人間の生物としての連鎖が断ち切られたのです。
死の悲しみの連鎖を断ち切る者としてイエス・キリストは誕生します。
このようなことを言いますと、
「何を馬鹿なことを言っているのか?そんなことあるわけがない。」
と誰もが思うでしょう。
しかし、そんな馬鹿なことを、あり得ないことを信じているのがクリスチャンであり、
キリスト教会です。
わたし自身、「本当にそんなこと信じているのか」と、厳しく尋ねられたら、
「本当、信じられないですよね。」と、言わざるを得ないほどです。
ただ言えますのは、20年前、学生時代にこのキリスト教信仰の世界に入ったときは、
もっと色々と分かるように信じていました。
勝手な理屈をつけて信じられないことを合理化していました。
たとえば、イエス・キリストは三日目に死人の中から蘇ったというけれども、
これはなにか仮死状態にあったものが蘇生したのではないかとか、
イエス様のなした色々な奇跡についても、色々科学的な説明を付けたりして推測していました。
このような考えについては日本では沢山出版されています。立派な出版社から沢山、本が出ています。
そして、20年ほどの信仰の歩みの中で、わたしが実感しているのは、
「信じられないけれど、本当なんだ」ということです。
そして、この「信じられないけれど、本当なんだ。」ということに出会う度に、
わたしは大きな喜びを体験してきました。
そして非常に多くの場合、この喜びを発見した時というのは、わたしの人生の危機の時であり、
悲しみと孤独の中でわたしはこのキリスト教信仰の真実を見いだし、
普通の場合ならば、自殺したり自暴自棄になってしまったかも知れないような中を歩き通すことができました。
そして、その歩みは今も続いています。
そして、そのように歩んでいる人々はわたしだけではありません。
教会に集うクリスチャンの全ては、皆、多かれ少なかれわたしと同じような体験を持っているのです。
神と共に歩んだダビデの詩に次のようなものがありますのでお聞き下さい。
詩篇23
23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
どうぞ、今日のこの夜がみなさんにとって、イエス・キリストを信じて歩み出す一歩となりますよう祈ります。
イエス・キリストを信じて下さい。イエス・キリストに祈って下さい。
主は本当に今も生きておられて、わたしたちの死で終わってしまう無意味な人生を、
意味ある豊かな平安なものに変えて下さいます。
クリスマスおめでとうございます。
どうぞ、皆様の心の中にイエス・キリストが生まれ、
みなさんの人生が素晴らしいものへと変えられますように。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society
, Tokyo 1987,1988